スマホで読む「歴史講座」


岡田幹彦先生が日本政策センター発行の月刊誌「明日への選択」に過去に掲載されていた「歴史の指標」の、当ホームページ掲載をご承認くださいました。(開催する歴史講座のレジュメでもあります)

 

 なお、岡田幹彦先生も管理人も商業的な意思はありませんので、この記事およびホームページの拡散は有難いのですが、先生のご好意から始まった記事掲載ですので、転載はご遠慮くださいますよう、お願いします。

 

第2話 柴五郎


 生年が万延元(1860)年とする説もある。父は会津藩士。兄は『佳人之奇遇』の著者柴四朗(東海散士)。青森県庁給仕を経て、陸軍士官学校卒業。明治12(1879)年砲兵少尉に任官。17年中尉に進級後、21年まで清国に駐在し、調査活動などに従事。28年日清戦争出征。33年清国公使館付武官となり、義和団事件で北京籠城戦を指揮、功績を称えられた。37年日露戦争に出征。大正8(1919)年大将、台湾軍司令官。10年軍事参議官。昭和5(1930)年退役。20年自決未遂の後、病死した。(近代日本人の肖像 柴五郎より

引用)


 歴史の指標

柴五郎(上) 難苦に耐えた会津武士の誇り

 

「什の掟」と会津武士道

 

 明治時代、日清・日露戦争時を別としてその名を世界に鳴り響かせた軍人が二人いる。明治二十五〜二十六年極寒期のシベリアを単騎横断した福島安正陛軍中佐と明治三十三年の義和団事件における北京籠城戦で奮戦した柴五郎陸軍中佐である。

 近年、会津の武士道が見直されている。明治期、会津から柴五郎のほか山川浩(陸軍少将)、山川健次郎(東京帝大総長)、出羽(でわ)重遠(しげとお)(海軍大将)、秋月悌(てい)次郎(じろう)(東京第一・熊本第五高等学校教師)、林権助(ごんすけ)(外交官)、松江豊(とよ)寿(ひさ)(板東悸虜収容所長)、大山捨(すて)松(まつ)(元帥大山巌(いわお)夫人)等すぐれた人物が出ている。

 会津武士の一典型、柴五郎は最後に陸軍大将に進み台湾軍司令官、軍事参議官になる。会津出身の柴がこの地位に達したのはその人物、才幹が傑出していたからであり、柴が困難逆境に耐え抜いたのは会津武士道の賜であった。

 柴五郎は安政六年(一八五九)会津藩士柴佐多蔵(さたぞう)の五男として会津若松に生まれた。柴家は二百八十石の上士で藩祖保科正之(ほしなまさゆき)以来の由緒ある家柄である。兄弟は十一人(内二人夭折、男五人女四人)いた。四人の兄みなすぐれた人物で、四男四朗は「佳人(かじん)之(の)奇遇(きぐう)」の著者として知られている。

 良家の子弟として柴は健かに生長した。賢夫人として尊敬された母は五郎を厳しく躾(しつけ)て、桃太郎などの童話、百人一首、楠(なん)公(こう)父子、二十四孝の話など忠孝と義理の物語を繰返し語り開かせた。後年、柴は「いまなお一部を暗記しおりて、それを口にすればなつかしきかな、母の膝の温か味を感じて思慕の情やるかたなし」と語っている。

 柴は生来やさしく温順な気質であった。普通の男の子の様ないたずらや荒っぽいことをせず、相撲などの勝負ごともやりたがらず、してもすぐ負けた。他人と言い争いすることも好まなかつた。会津藩士の子弟は「什(じゅう)の掟」と呼ばれた教えにより錬磨された。「什」とは六歳から九歳までの年少者の集まりのことで、掟は次の通りである。

 年長者の言うことを聴かねばなりませぬ。

 年長者には御辞儀(あいさつ)をしなければなりませぬ。

 嘘を言うてはなりませぬ。

 卑怯な振舞をしてはなりませぬ。

 弱い者をいじめてはなりませぬ。

 戸外で物を食べてはなりませぬ。

 戸外で婦人と言葉を交してはなりませぬ。

 ならぬことはなりませぬ。

 武士の子弟は組の中で遊ぶが、この「什の掟」に反することをした場合、罰せられる。最も重いのは「絶交」である。この様にして会津の武士は幼少より立派な侍になることを目指し切磋琢磨し合ったのである。

 

 会津落城の悲劇と斗南での辛苦

 

 明治元年、会津藩は不運に会い悲劇に見舞われた。前年、徳川幕府が倒れ王政復古が行われ、翌年四月江戸開城となり明治維新が成立した。会津藩は官軍と戦い同年九月、降伏した。会津落城の際、祖母、母、兄嫁、姉、妹の五人は悲しくも自刃をとげたのである。十歳の柴は郊外に避難していた。

母達の死をきかされた時、柴は茫然自失、泣くに涙流れず、めまいしてその場に打ち伏し嘆き悲しんだ。それから二ヶ月毎夜、母、姉妹と一家団業の夢を見続け、覚めては涙にくれた。以後、会津藩士とその家族は名状に尽し難い悲惨苦を味わうのである。

 明治二年九月、会津藩は下北半島の斗(と)南(なみ)三万石に転封された。旧領三十余万石から十分の一以下の激減であつた。そこは半年雪に一敵われる瘦地であった。

 明治三年二月、十二歳のとき柴は父、長兄太一郎夫妻とともに斗南に移った。兄はやがて藩でおきた事件の不始末の責任を一身に負い七年の禁固刑に服した。柴家の度重なる不幸であった。

父と兄嫁と五郎の三人はあばら屋を借りた。キ南の冬は零下十五度にも下り強い北風が狭い部屋を吹き抜けた。炉に焚火して寒気を凌がなければ眠られなかった。父は手細工(てざいく)仕事、兄嫁は授産所で機織(はたお)りをしてわずかな収入を得る毎日である。白米など思いも寄らず、海岸に流れついた昆布、わかめなど集めて干しこれを棒でたたいて細片にし粥にして食べた。これをオシメ粥といい辛じて餓死を免れるという惨懺たる生活であった。

 あるとき死んだ犬の肉をもらい、しばらく塩だけで煮た大内を食べる日が二十日も続いた。やがて柴はのどにつかえて吐気を催した。すると父が叱りつけて言った。

 「武士の子たることを忘れしか。戦場にありて兵糧なければ、大猫なりともこれを喰いて戦うものぞ。ことに今回は賊軍に追われて辺地にきたれるなり。会津の武士ども餓死し果てたるよと、薩長の下郎(げろう)どもに笑わるるは後の世までの恥辱なり。ここは戦場なるぞ、会津の国辱雪(そそ)ぐまでは職場なるぞ」

 移住してから何とか食べてゆくだけの生活が続いたが、翌明治四年六月、田名部(現むつ市)におかれている藩校で学んだ。家から少し遠いので知人の家に寄宿、 一と六の休日ごとに父のところに戻った。その頃の一家の生活ぶりにつき柴はこうのべている。

 「いよいよ吹雪の季節いたりて余(私)の一、六の体日通い困難をきわむ。余は前々より下駄も草履も持たずはだしなり。家に入るときは桶にて洗いてのち入るをつねとせり。氷点下十五度を降(くだ)ることまれならず。氷雪の上にはだしにてたちてあれば凍りつきて凍傷す。常に足踏みしてあるか、あるいは全速にて走るほかなし。…夏のままの衣類を風にひるがえしてまた氷雪の山道を飛ぶがごとく馳せて落の沢の父上を訪ね、米一升(藩からの配給米)を貰いてふたたび凍結の山野を馳せ帰る.父上、兄上(三兄五(ご)三郎(さぶろう)がやがて同居)もこれを見て履物を工面せんとするも容易ならず」

 「父上も余も姉(兄嫁)も面窶(おもやつ)れ、蓬髪(よもぎがみ)垂(た)れ、手足荒れて、オシメ粥をすする。まことに顧みて乞食の一家なり。父上、兄、余(やがて勉学中断し家に戻る)は朝より夜まで垂れたる蓆(むしろ)をあおりて無情に吹き入る寒風に身をふるわせつつ縄をなえり。…今日の悲運嘆きても甲斐なし。さればとて近き日に希望の兆もなし。…過去もなく未来もなく、ただ寒く飢えたる現状のみに生くることいかに辛きことなりしか」

 

 恩人野田豁通

 

 柴一家はかくの如き骨をさす窮乏と難苦に耐え忍んだが、明治四年十二月、 一家に曙光が射し込んだ。旧藩政府の選抜により柴はもう一人の武家の少年とともに青森県給仕として採用されることになった。それは兄五三郎の蔭の奔走によるものであったが、この朗報に父と兄嫁は歓喜した。二人は早速仕度(したく)を整えてくれた。出発の日、父にこう挨拶した。

 「何かひとかどの修業をいたさねば、再び家にもどりませぬ。父上、ご健勝にてお待ち下され」

 五三郎からこう言えと教えられた言葉である。父は声なくうなずき、兄嫁は声を忍んで泣

いた.五三郎は人柄、才幹とも兄弟中最もすぐれ、他日柴家の家名を挙げるのは五三郎であろうといわれた人物だが、生涯兄弟の為に何くれと世話をしやがて会津若松に戻る老父のそばで孝養を尽して下級吏員のまゝ一生を終えた。十三歳の柴はこうして父、兄達の期待を一身に担って旅立つのである。

青森県庁で柴は一心に働いた。最下級の雑用係で忙しい毎日だったが、斗南の生活に比べれば天国みたいなもので、仕事は容易で楽しかった。しかも斗南時代を思えば夢の様な給料が貰え、衣食住の心配はなかった。柴らの仕事ぶりは評判よく、ついには給仕はみな会津出身者となったほどである。

 柴を見所ありとして弟のように可愛がってくれたのが県大参事野田豁(ひろ)通(みち)である。やがて野田の邸宅にひきとられて生活した。野田は元熊本藩士、その後陸軍省初代経理局長、男爵になった人物で、この時二十八歳。柴は少青年時辛酸を嘗めたが、ゆく先々で立派な人物と巡り合った。柴にはどこか人々から親愛される人柄の良さがあった。柴は野田についてこうのべている。

 「野田豁通は書生取り立てに意を用い、かつ興味と義務を感じありしがごとく、後藤新平、斉藤実など多くの人材を養成せり¨……野田は討幕派、佐幕派などの差別まったくなく人物本位なるを見て、余の心底のこだわり次第に融けて限界ひらけゆく心地せり」

 生涯における最初の思人が家族を別にして野田であった

 

 陸軍幼年学校入学

 

 必ず世に出て会津藩士の無念を晴らすべく向上心やみ難い柴は、上京して勉学せんとする志を野田に打ち明けたところ、心よく賛成してくれた。

 明治五年八月、東京に出た。この時十四歳。東京では斗南県大参事であった山川浩らの世話になるが、生涯第二の思人が山川である。この時、野田豁通は青森県大参事をやめ陸軍会計一等官吏になっていた。東京で再会した野田は、「近々陸軍幼年生徒隊(陸軍幼年学校の前身)にて生徒を募集する試験あり、受けて見よ。これに合格すれば陸軍士官になることができる。汝武士の子なれば不服あるまい」と強く勧めた。

 喜んだ柴はすぐ準備し受験したが、明治六年二月運良く合格した。野田と山川は心から悦び祝福してくれた。山川は早速店々をたずね歩き、柴の体に合うフランス式の軍服、帽子、靴などを買い求め着せてくれた。 一家をあげて喜んでくれたことを柴はこう語る。

 「山川母堂の悦び、ことのほかなり。余の両肩に手を置きて、前よりうしろより眺めて流涕(りゅうてい)す。おそらく自刃(じじん)して果てたる余の祖母、母上を偲(しの)び給えるなるべし」

 その姿で野田豁通邸を訪れ挨拶すると、野田は「ほう」といって、「これでよか、これでよか」とほほえんだ。柴は言う。

 「わがごとのごとくただ悦びて眺めたり。野田豁通の恩愛いくたび語りても尽すこと能(あた)わず。熊本細川藩の出身なれば、横井小楠の門下とはいえ藩閥の外にありてしばしば栄進の道を塞(ふさ)がる。しかるに後進の少年を看(み)るに一視同仁(どうじん)、旧藩対立の情を超えてただ新国家建設の礎石を育つるに心魂を傾け、しかも導くに諫言をもってせず常に温顔を綻(ほころ)ばすのみなり」

 柴にとり生涯最良の日であった。以後、柴は旧会津藩士の期待を一身に担って勉励するのである。

 

 苦節十年の努力-父兄への感謝

 

 柴は陸軍幼年学校で明治六年から十年まで四年間学んだ。創設当時、教官はすべてフランス人で授業はフランス語で行われたから、生徒の苦労は並大抵でなかった。柴らはフランス語の勉強に明け暮れ、休憩時も体日も必死に自習した。ことに発音に苦労した。会津弁のため、イと工、リとユの区別がつかず、生徒に嘲笑された。しばらく成績は最後尾だった。

 食事は洋食でバン、スープ、内類だけ。土曜の昼食のみカレーライスがつく。生徒はこれに閉口して不平を言ったが、斗南育ちの柴にとっては「フランス語以外はまことにもって天国に近し」であった。

 明治七年四月、二年生になったが成績は相変らず末尾だった。柴はこう語っている。

 「性来の内気ますます内攻して意気消沈、ひがみ根性を生ず。さりとてこのままにては落伍のほかなし。『何かひとかどの修業をいたさねばふたたび家にもどりませぬ」と田名部にて父に別れの挨拶せることを思い出しては、ただがむしやらに勉学のほかなしと覚悟す」

 あるときフランス語の作文が課せられた。仏人教師は首席の生徒より順に読ませたが、二、三行でたちまち「だめ」と着席を命じ、二十数人すべて落第、最後柴の番になった。恐る恐る読み始めたが、不思議にも教師はうなずいて聞き続け最後まで読ませた上、「作文はかくのごとく綴(つづ)るべきなり」と柴をほめたたえた。

 この教師の一言で長らく柴を苦しめた劣等感が吹き飛び、以後フランス語が楽しくなり成績は最後尾を脱して見る見る上昇、全学科において優秀生徒の一人となった。会津武士の誇り、父や兄、野田や山川らへの感謝と報恩の心を一日も忘れることなく倦まず撓まず粘り強く努力した賜物であった。

 明治十年五月、陸軍士官学校(第三期)に進んだ。同期生に秋山好古(よしふる)、上原勇作、藤井茂太等、日露戦争で活躍する英才が多かった。柴はここでも持ち前の努力を重ね、明治十二年卒業、二十一歳のとき陸軍少尉(砲兵)に任官した。同年柴は会津若松に戻っていた父達に九年ぶりに会った。父の所には五三郎、姉の一人とその娘らが同居し、つつましく暮らしていた。父と兄らの顔を見て柴の両眼から涙がとめどなく溢れ、拭っても拭っても流れおちた。ひとえにこの父や兄達のおかげで今日の自分があるからであつた。(全三回予定)

                            〈明日への選択 平成21年6月号 岡田幹彦〉

 


 歴史の指標

柴五郎(中) 義和団事件と北京籠城戦

 

兄四朗が著した『佳人之奇遇』

 

 明治十四年、柴の初任地は大阪鎮台砲兵第四大隊であった。二年後、近衛砲兵第四大隊に転属、翌年、参謀本部支那課に移った。柴はかねて支那勤務を望み、支那語の習得を怠らなかった。

 維新時さんざんな目にあった会津人だったが、柴は陸軍に入っていやな目にあってはいない。「私は陸軍において会津出身なるがゆえに差別待遇された記憶は一度たりともない」と言っている。柴は当時陸軍を背負って立つ川上操(そう)六(ろく)参謀次長や参謀本部第二局長桂太郎から目をかけられ将来を期待された一人であった。柴の学校成績は優秀、勤務ぶりは熱心、真面日で、ことに誠実、温良な人柄は誰からも好意をもたれた。

 明治十七年、中尉に昇進し福州の駐在を命ぜられた。念願の渡清がかなった。二十六歳の時である。支那勤務は三年半に及んだがその間、北京、満州を視察し、兵(へい)要地誌(ようちし)(戦間の為の精密な地図)作りに励んだ。滞清中、イギリスがビルマ、フランスがインドシナを植民地化した。日の前で西洋諸国のアジア侵略が着々と進む中にあって、柴ら明治の先人達は列強の毒牙から日本の独立を守り抜く為に心血を注いで任務に精励したのである。

 明治十八年、兄柴四朗は『佳人之(かじんの)奇遇(きぐう)』を著したが、たちまち一世を風靡するベストセラーになった。四朗も他の兄弟同様辛苦の道を歩みアメリカに渡り六年学んだが、滞在中帝国主義が極盛に至り列強が世界中を侵略征服しつゝある現実に目覚め祖国日本の運命を憂えた。四朗が帰国した明治十八年前後は鹿鳴館に象徴される欧化主義が世を覆い人々は欧米崇拝に浮かれていた。 一方、対韓対清外交は不振を極め、わが国は二度の朝鮮事変で敗退、清に痛い目をあわせられた。

 四朗はこうした現状を憤慨し人々に日本の危機を警鐘せんとしてこの本を書いた。内容はアイルランド、ポーランド、ビルマ、エジプト等の衰亡の歴史であり、イギリスを始め西洋列強が非道と惨虐を以て弱肉強食の征服と支配を展開していることにつき、四朗のアメリカでの体験を種に小説風に仕立て上げたものである。この文章は三兄五三郎の助けをかりた。兄弟中一番の俊秀五三郎が手を入れて流麗な文体に磨きをかけた。五三郎は兄と弟に対していつも縁の下の力持ちの役割を果したのである。

 

 シナ・台湾・英・米での勤務

 

 帰国後、大尉に進み近術砲兵連隊の中隊長となり、そのあと陸軍省砲兵課、陸軍士官学校教官、参謀本部支那課につとめ、その間結婚し一女を授かった。

 明治二十六年、川上操六参謀次長に随行して清韓両国を視察した。柴は人物本位で英才を参謀本部に集めた川上が信頼する一人であった。

 明治二十七年、朝鮮問題の解決をめぐりついに日清戦争が勃発した。その時イギリス公使館付武官心得の柴は九月帰国し、大本営参謀となり同時に少佐に進んだ。わが国の勝利後、台湾が割譲されたが、二十八年台湾総督府参謀に任ぜられた。

 翌年イギリス公使館付武官となった。この年米西(スペイン)戦争が始まり、柴は参諜本部から戦況視察を命ぜられワシントンに出向いた。在米公使館には陸軍武官がいなかったからである。ここには海軍の秋山真之(さねゆき)大尉が留学中だったが、二人は意気投合した。米西戦争の結果、アメリカはスペインからフィリピン、グアムを奪い取り、キューバを保護国とし、同年ハワイを併合した。兄四朗が『佳人之奇遇』で書いた通りの欧米の他国侵略のすさまじさを柴は改めて実感した。

 三十二年に帰国し中佐に進級、参謀本部に勤め、翌年二月 、清国公使館付武官となった。四十二歳の時である。こうして三たび北京の地を踏むが、同年柴の武名を世界に鳴り響かせることになる義和団事件(北清事変ともいう)が起こるのである。 

 

 義和団事件

 

 義和国は百年ほど前からあつた呪術を行う拳法の一派だが、近年山東省、直隷(ちょくれい)省等で勢力

を伸ばし「扶清滅(ふしんめつ)洋(よう)」を掲げて極端な排外運動を起こした。明治三十一年から三十二年にかけてロシアが旅順・大連、ドイツが膠州(こうしゅう)湾、フランスが広州湾、イギリスが威(い)海(かい)衛(えい)を租借し清が半植民地状態に陥ったことが義和団の暴動を一層募らせた。

義和団は明治三十三年春以降、キリスト教会、駅等を襲撃し内外のキリスト教徒等を殺傷する残虐な破壊活動を激化させその勢いはとどまることを知らなかった。

これに対して各国公使は清国政府に抗議、暴徒鎮圧を要求したが、同政府は一向に取締る様子なく放置した。そこで五月末列国は居留民を保護するため自衛のほかなしとして、天津の外港たる大沽(タークー)に碇泊している自国軍艦より海軍陸戦隊を入京させ公使館と居留民の護術にあてた。

 六月になると暴動は益々拡大、北京・天津間の鉄道が破壊された。同月十一日、日本公使館の杉山彬(あきら)書記生が清国軍兵士により馬車から引きずりおろされ心臓を挟り抜かれ惨殺された。義和団のみならず清国軍までこの暴挙に加担したのである。

 六月十三日、義和団は北京の各国公使館に対して攻撃を開始した。清国政府はこれを鎮圧するどころか、義和団の暴動を契機に列国との戦争を決意、二十日清国軍は公使館への攻撃を開始し翌日、列国に宣戦布告した。全く狂気の沙汰というほかない常軌を逸した行為であった。以後八月半ばまで二ヶ月間、辛苦に満ちた籠城戦が続く。

 

 籠城戦開始

 

 日本を含む各国公使館は宮城東南側の一角、東西・南北各約八百メートルの区城にあった。

西側にイギリス、ロシア、アメリカ、オランダ、中央から東側にスペイン、日本、ドイツ、フランス、オーストリア、ベルギー、イタリア計十一ヶ国の公使館がありそこにシナの官庁、民家が混在していた。

陸戦隊を派遣したのは八ヶ国でその兵力は、日二五、英八二、仏七八、米五六、露五一、独五一、伊四一、オーストリア三三名、これに各国駐在武官などを合わせて総数四三〇名である。このうち仏伊の四〇名はここから少し離れた天主堂教会に分遺されたので、この区域の兵力は三九〇名にすぎなかった。そこで各国は居留民から義勇兵を募った。総数は一五〇名で内日本義勇兵は三一名。公使館員、留学生、民間人が慣れぬ武器を手に取ったのである。

 この広大な区域をわずか五百余名で守らねばならないのだから籠城戦は困難を極めた。寡少な兵力の上に武器も小銃ぐらいしかなく大砲はほとんどなかった。 一方この区域を重包囲した清国軍の兵力は一万人以上と見られた。

 各国武官と陸戦隊指揮官はいかにして公使館を守り居留民を保護するか協議した。基本的には自国公使館を自力で防衛することだが、それだけではすまなかった。十一ヶ国中オランダ、ベルギー、スペインは守備兵力を持たない。一国の公使館が崩された場合、またこの区域中の公使館以外の要所が敵に占拠された場合、列国軍は全面的崩壊をもたらす恐れが十分あった。従って各国軍隊の連繋協力が必須であった。

 イギリス公使館は最も広大で兵力多く比較的安全と思われたから、各国の老人、子供、女性、病人はここに集められた。

 籠城戦で最も問題となったのが、イギリス公使館の東側に隣接する粛(しゅく)親王府(しんのうふ)である。王府はこの区域の中央部北半を占め、東西二百メートル、南北三百メートルもの広さがありしかも回りより少し小高かった。清国王族たる粛親王はすでに避難しており、工府には留守番しかいなかった。柴はこの要地の防御こそ籠城戦の成否を決することをいち早く察したが、この王府防衛という最重要任務をまかされたのが柴中佐の率いる日本守備隊であった。

 

 列国軍の難戦苦戦

 

 六月二十日、清国軍の攻撃が始まった。清国軍はまず東側北部のオーストリア公使館を砲撃した。少数のオーストリア軍は抗戦のすべなく早々と公使館を捨ててやゝ中央寄りのフランス公使館に逃げ込んだ。オーストリア公使館のすぐ南にあるベルギー公使館は一部のオーストリア兵が守っていたが彼らも守りを放棄したので公使館員らはフランス公使館に避難した。同日ベルギー公使館は清国軍により放火され消失した。

 二十一日、清国軍はオーストリア公使館を焼き払った。次いでイタリア公使館を攻め翌日占拠した。南西部の端にあるオランダ公使館も焼かれた。またやゝ安全と思われたイギリス公使館が背後のシナ側建物から攻められた。兵力が最も多いイギリス軍も自国公使館の防衛で手一杯であった。

 清国軍は東西から攻めつけ二日で東側のオーストリア・ベルギー・イタリア公使館及びオランダ公使館を制圧し包囲網をせばめた。このあと列国側の守備が最も手薄な東と北の両面から主要部である王府に向って連口激しい攻撃を繰り広げるのである。

 列国軍は当初籠城戦の総指揮官として最先任であるオーストリアのドーマン中佐を選んだが、その指揮と戦いぶりが余りにもまずかったので、二十二日軍歴のあるイギリスのマクドナルド公使に交代した。マクドナルドは終りまでよくつとめを果したが、彼が最も信頼してやまなかったのが柴であった。籠城戦の実質的主将は王府を守り抜いた柴であったのである。

 

 王府防衛線

 

 柴が思った通り王府が両軍攻防の焦点になった。広大な王府を守る日本軍は義勇兵をいれて五十余名しかなかった。そこでイタリア兵二七名と外国人義勇兵が加えられた。他に清国難民の中から三十名が義勇兵となった。合計百数十名ばかりで数十倍の清国軍と五十余日間戦い続けたのだから、その辛苦は筆舌に尽しがたいものがあった。

 王府には清国人キリスト教徒三千人が収容されていた。その保護の役目も柴にあった。そこで柴はこの避難民を使い陣地作り等の工事、消火活動、死傷者の救護などにあたらせた。義和国による虐殺を免れた彼らは柴の指揮に従い喜んで働いた。

 六月二十三日、東側の三公使館を崩した清国軍は王府に向って攻め立てた。柴は少数の部下を巧みに使い防戦した。 一方、清国軍はイギリス公使館の北側に隣接する翰(かん)林(りん)院に放火して公使館を攻めた。マクドナルドは公使館にいる男女全てを使い消火につとめたので、公使館は消失を免れた。清国軍のこの放火戦術に列国軍は終始苦しめられるのである。

 二十四日も激しい戦闘が続いた。王府への攻撃が激化した為やむなく柴はマクドナルドに援兵を請うた。彼はすぐに独、仏、墺の兵各十名を寄こしてくれた。この籠城戦において三十名の援軍はあたかも大兵を得たような心地がしたと後に柴は語っている。

 ところがしばらくしてマクドナルドが英公使館が危急ゆえいくらでもよいからと援兵を請うてきた。柴はすぐさま安藤辰五郎隆軍大尉に七名の兵をつけて派遣した。安藤大尉は公使館に侵入しつゝあった敵兵の中に真先にとびこみついで部下が突入、幸くも敵を撃退した。マクドナルド始め公使館にいた諸外国人は皆安藤大尉の胆勇に感服しないものはなかった。

 連日激間が続いたが、開戦以来の苦戦が七月上旬であった。 一日、わが方を悩ました敵の大砲を奪おうとしたイタリア兵の主将パオリーニ大尉が戦死をとげ計十名のイタリア兵が死傷した。 一日で十名の死傷者を出したことは王府守備軍にとり大きな痛手であった。このとき王府を包囲する敵軍は八千から一万もあったのである。

 二日は前日以上の難戦だった。敵の猛攻にわが方はやや後退を余儀なくされたが日本革は死力を尽し王府を守り抜いた。大砲を持たない百余名の兵力で持ちこたえているのが不思議であった。

 七月四日の時点で列国将兵の損害は死者三七名(内日本四名)負傷者六五名(日本一一名)計一〇二名、全将兵の四分の一を上回った。

 六日、三十余名の義勇兵を指揮していた安藤大尉が戦死した。大尉は柴の片腕として最も奮闘した勇士だったので柴の落胆は大きく悲しみは深かった。こうのべている。

 「安藤大尉はついにこの日の晩亡くなりました。戦争中実に立派な働きをなしました。沈着にして勇敢でかつ人に向ってきわめて親切であるため日本人一同敬服したるは勿論、諸外国人もみな感心しておりました。英公使のごときは大尉の死を聞きて、ことに悲痛の弔詞を寄こしました。大尉が死なれた時には私は一手を失いたる心地して、今後はなんといたそうかと実に当惑しました。葬式に列し一朶(いちだ)の草花を手向けたときは感慨のきわみ、しばらくは墓前を去るに忍びませんでした」

 もともと少ない兵力が日ごとに減少してゆく苦しい戦いが、尚一ヶ月以上続くのである。

(次回完結予定)

                            〈明日への選択 平成21年7月号 岡田幹彦〉

 


 歴史の指標

柴五郎(下) 武士道が生きていた時代

 

籠城戦の辛苦

 

 籠城戦は一ヶ月が過ぎた。将兵は夏の炎熱下、連日苦戦に明け暮れ、睡眠時間は三、四時間しかとれず、衣服は破れ汚れ洗濯するいとまもなかつた。食料も少なくなり半月すぎには日に半減となった。兵士らは負傷しても重傷でない限り体まずに戦い続けたから、疲労困憊(こんぱい)は極限に達した。

 そこで柴は兵士を少しでも休養させるため、マクドナルド英公使に事情を話した。すると公使は大いに岡情し、あちこち繰り合わせて十六名の兵を寄こしてくれた。柴は日本兵の半数十四名を七月十六日早朝よリ夕刻まで休憩させ睡眠させたり洗濯させたりし、食物も平日より麦饅頭(まんじゅう)一個余分に渡し兵士をねぎらった。マクドナルドは翌日も兵士を寄こしてくれたので残り半数の将兵を体養させた。たった半日の体養だったが、将兵は活力を一気に取り戻すことができた。

 ところが七月十七日、清国軍の攻撃が急にとだえた。この時日本軍のもつ弾丸は水兵一人三十五発、義勇兵一人が二十発足らずである。敵がもしこの一、二日猛攻を加えたならわが軍の弾薬は全く尽き果て全減の恐れが十分あった。

清国軍が攻撃を控えたのは七月十四日、日本軍を主力とする連合軍により天津が陥落したためである。これにより気勢をそがれた清国軍はしばらく攻撃を中止した。その間籠城軍は防御工事につとめた。

 七月十八日、福島安正少将から天津城陥落と七月下旬、連合軍が北京救援に出発するとの吉報が届いた。柴以下一同蘇生の思いを味わった。

 

 欧米人の賛嘆

 

 王府を主職場とする籠城戦において見事な指揮、統率ぶりを発揮し最後まで持ちこたえた柴中佐に対して、欧米人は次第に見直しやがて感嘆、絶賛し、中佐に限りない畏敬と親愛の念を抱くに至った。イギリス義勇兵の一人二十三歳の一青年は柴の指揮下に戦ったがこう述べている。

 「数十名の義勇兵を補佐として持っただけの小勢の日本軍は、王府の高い壁の守備にあたっていた。その壁はどこまでも延々と続き、それを守るには少くとも五百名の兵を必要とした。しかし日本軍は素晴らしい指揮官に恵まれていた。公使館付武官の柴中佐である。・・・この小男はいつのまにか混乱を秩序へとまとめていた。彼は部下たちを組織化しさらに大勢の教民たちを召集して前線を強化していた。実のところ彼はなすべきことをすべてやった。僕は自分がすでにこの小男に傾倒していることを感じる。僕は間もなく彼の奴隷になってもいいと思うようになるだろう」

 今日から比べて想像できないような強い人種偏見のあった時代である。イギリス人をしてかくまで言わせた柴の指揮ぶりがいかにすぐれていたかがわかる。続けて彼はいう、

 「小柄の奇才柴中佐はやたら歩き回って時間を無駄にするようなことはしない。彼は緑・青・赤の点を付した地図を携帯しており、刻々と変る兵隊たちの部署、それぞれの兵力、戦闘能力を常に監視し記録している。なぜか僕は日本兵の持場から離れることができなくなってしまった。彼らの組織づくりはそれほどに素晴らしい」

 イギリス公使館書記生ランスロット・ジヤイルズはこう言う。

 「日本兵が最も優秀であることは確かだし、ここにいる士官の中では柴中佐が最優秀と見做されている。日本兵の勇気と大胆さは驚くべきものだ。わがイギリス水兵がこれに続く。しかし日本兵はずば抜けて一番だと思う」

 イギリス人ピーター・フンミングはこう述べている。

 「戦略上の最重要地である王府では日本兵が守備の背骨であり頭脳であった。日本兵を補佐したのは頼りにならないイタリア兵で、日本を補強したのはイギリス義勇兵だった。日本軍を指揮した柴中佐は籠城中のどの士官よりも有能で経験も豊かであったばかりか、誰からも好かれ尊敬された。当時、日本人とつきあう欧米人はほとんどいなかったが、この籠城を通じてそれが変った。日本人の姿が模範生としてみなの目に映るようになった。日本人の勇気、信頼性、そして明朗さは籠城者一同の賞讃の的となった。籠城に関する数多い記録の中で直接的にも間接的にも一言の非難を浴びていないのは日本人だけである」

 一般居留民として籠城したアメリカ人女性ポリー・スミスはこうのべる。

 「柴中佐は小柄な素晴らしい人です。最初の会議では各国公使も守備隊指揮官も別に柴中佐に見解を求めようとはしませんでした。でも今はすべてが変りました。柴中佐は王府での絶え間ない激戦で常に快腕を奮い偉大な士官であることを実証しました。だから今ではすべての国の指揮官が柴中佐の見解と支援を求めるようになったのです」

 もし王府の防御が崩れたならば公使館区域は死命を制せられ、各国守備隊は一挙に全滅する。そのとき婦女は凌辱を受け居留民は残らずなぶり殺しにあう。柴中佐と日本軍の奮戦なかりせばこの憂目を見ることは不可避であった。それ故にこそ欧米人は籠城戦の事実上の主将柴中佐に心から感謝するとともにかくもほめ称えてやまなかったのである。

 柴中佐の下で戦う日本軍将兵ほど欧米人にとって強く頼もしきものはなかった。彼らは重傷を負って麻酔もない手術を受ける際、欧米の兵士の様に泣き叫んだり、大きなうめき声を出さなかった。口の中に帽子を突っこみそれを噛みしめ痛みに耐え抜いた。

 イギリス公使館内の野戦病院に運ばれる日本の負傷兵たちを看護したのは日本婦人だが、彼女らは精一杯負傷兵に尽した。日本兵負傷者と看護の日本婦人がいる一角はいつも和(なご)やかで時に笑い声さえ聞こえた。自国兵の看護にあたる欧米の女性たちはこの男らしい日本軍将兵に親愛の念を抱かぬものはなかった。

 当時の日本人は将校も学歴高い義勇兵も農民や職人出身の兵士たちも皆勇気があり沈着で明朗で欧米人の賞贅の的となった。武士道が尚厳然と生きていた時代であり、日本人の国民性は欧米のいかなる文明国のそれよりも卓越していたことを雄弁に物語るのが、北京の籠城戦であったのである。日本人は無形の精神的要素において当時世界無比の民族であった。

 

 連合軍入場

 

 八月一日、日本軍の食料は尽き、以後食物はイギリス公使館内の列国食糧委員会から供給された。

十日、福島少将から連合軍は十三日か十四日に北京に至るとの連絡が届いた。十一日から三日間、清国軍は最後の攻撃をかけたが、柴はこれを撃退した。

 十四日、連合軍一万六千がようやく北京に到着した。主力は約八千の日本軍で広島の第五師団(師団長山口素(もと)臣(おみ)中将)が派遣された。他にイギリス二千、ロシア三千、アメリカ二千、フランス八百、ドイツ二百である。清国軍は一日の戦いで敗北、同日、連合軍は北京に入城した。

 こうして二ヶ月間の籠城戦が終り、各国居留民は解放された。同日夜、柴は福島少将と固く握手、互いの辛苦をねぎらい合った。

 北京籠城戦、天津城攻撃、北京城攻撃の三つの戦いにおいて主力として最も奮戦したのは日本軍であった。この戦いにおいて日本軍は最も勇敢、剛毅かつ規律正しい軍隊であることを欧米人の眼前で証明して見せた。北清事変はいうならば軍隊オリンピックといってよかった。欧米列強に伍して戦ったが、日本軍は欧米のいかなる強国の軍隊と比べてみて優秀であることがはからずも立証されたのであった。その日本軍の立役者こそ籠城戦の柴中佐であり、救援日本軍先発隊の福島少将であった。

 

 英公使の感謝と賞賛

 

 龍城戦において最大の犠牲を払ったのは日本軍である。死者の比率は二〇%、負傷者は五二%に達した。これに次ぐのがイタリアである。イギリス人からは弱兵扱いされたが、イタリア兵は柴中佐の指揮の下で奮闘したのである。勇将の下に弱卒なしである。これをみても粛親王府の戦いの激しさがわかる。

 解放後、列国指拝官会議において、マクドナルド英公使は、

 「北京籠城戦の功績の半分は特に勇敢な日本軍将兵に帰すべきである」とたたえた。

 戦後、列国軍に占領された北京はしばらく軍政が布かれたが、欧米各国の担当区域では将兵、居留民が掠奪行為をほしいままにした。イギリス人もアメリカ人も皆やった。もっともひどかったのがロシア人だった。彼らは籠城戦で苦しめられたから、目には目をで復響、仕返しを行い罪の意識は少しもなかった。これが「文明国」を称する欧米人の実体である。

 日本軍の占領区域の軍政を担当したのは柴である。日本軍の担当区域で掠奪を働く日本兵、日本人は皆無であった。区域の北京住民は柴に強く感謝してやまなかった。

 柴中佐の指揮ぶりと日本軍の勇猛無比の戦いぶりに強烈な印象を受けたマクドナルドは翌年駐日公使に転じたが、その年本国政府に対して「日英同盟」の締結を具申した。また桂内閣においても小村寿太郎外相が日英同盟策を強く推進したことと相俟(あいま)ち、明治三十五年一月、同盟が成立した。北京籠城戦における柴と日本軍の奮戦が日英同盟を成立せしめる上に大きな働きをしたのである。

 また籠城職で一緒だったタイムス記者モリソンにより柴中佐の名は世界に伝えられた。こうして柴は欧米で広く知られる数少ない日本人の一人となった。

 

 日露戦争

 

 明治三十四年二月、柴は任務を終え帰国した。

 柴は大山巌(いわお)参諜総長に伴われて参内、明治天皇に北京籠城戦について奏上する光栄に浴し

た。皇后陛下にも拝謁を賜わりあたたかいねぎらいのお言葉を頂いた。その後、皇太子、皇族、諸名士に招かれ一躍時の人となった。

 また同年北清事変の戦功に対して功三級金鵄勲章を受けた。福島少将も同級の勲章で、 一中佐として異例だった。

 同年、柴は参謀本部第四部長、次いで野砲兵第十五連隊長に進んだ。明治三十六年大佐になり、翌年二月、日露戦争が開始された。野砲兵第十五連隊は砲兵第一旅団麾(き)下(か)として奥保鞏(やすかた)大将の率いる第二軍に配属された。

 第二年は南山(なんざん)の戦い、遼(りょう)陽(よう)会戦、沙(さ)河(か)会戦、奉天(ほうてん)会戦等で奮戦した。日本軍は各戦闘において兵力、弾薬量の不足に悩まされたが、優勢なロシア軍に対して力の限りを尽して連戦連勝した。最後の大会戦、奉天会戦における戦いぶりにつき、野砲兵第十五連隊史はこう記している。

 「三月五日は彼我の砲戦最も激烈を極めたる日にして、敵の重砲弾、間断なく雨注(うちゅう)し、号令をとる大隊長以下はすべて声を涸(か)らし血を吐くに垂(なんな)んとし、下士卒(かしそつ)は連日の激闘に身体綿の如く疲労するもなおよく奮闘、敵弾雨注の下にありて士気いよいよ揚がる」

 この日、柴は至近弾による爆風で昏倒した。砲弾の破片が頭部をかすめ傷を負った。軍医から頭部をぐるぐる巻きにされ二日間横臥を余儀なくされたが、その状態で指揮を取り三日目には立上った。

 三月九日、東西から攻めつけられたロシア軍はついに全軍退却を開始した。十日、日本軍は追撃、奉天を占領してこの会戦を制した。

 五月二十七・八日、日本海海戦が行われ東郷平八郎の率いる連合艦隊は空前の大勝を遂げた。この結果、ロシアは継戦を断念、九月、講和条約が成立した。

 日本の運命を決しかつ欧米主導の世界史を根本的に変える一大契機となった日露戦争は幾多の名将、勇将が奮戦力闘したが、柴はその中の一人であった。

 

 気骨ある明治人の一典型

 

 明治三十九年、柴は陸軍少将になった。四十年、佐世保要塞司令官、四十二年砲兵第二旅団長を経て大正二年陸軍中将に昇進、翌年第十二師団長(小倉)になった。大正八年、陸軍大将に親任された。六十一歳のときである。会津から出た二人目の大将である。最初の大将は出羽(でわ)重遠(しげとお)海軍大将である。同年、台湾軍司令官となった。この赴任に先立ち陸軍特別大演習が行われたがそのとき北軍司令官として指揮をとった。相手の南軍司令官は同期生の秋山好古(よしふる)大将である。

 大正十年軍事参議官となり、十二年六十五歳のとき予備役入りし五十年間の軍人生活を終えた。柴は長寿を保ち昭和二十年十二月、八十七歳で亡くなる。

 「賊軍」の子弟として辛酸を嘗めたが、もって生まれた誠実で温良な気品高き人柄と不屈不撓の会津武士魂をもって明治日本の興起と躍進に精魂を尽した柴五郎の生涯は、気骨ある明治人の一典型であった。(完)

                            〈明日への選択 平成21年8月号 岡田幹彦〉