第3話 親日はかくして生まれた 第一章 日本トルコ友好の懸橋 エルトゥールル号事件とトルコの恩返し


 岡田幹彦先生から、ご著書「親日はかくして生まれた」を、このHPに掲載して良いよ。とのお話を頂きました。岡田先生、有難うございます。

 


日本トルコ友好の懸橋― エルトゥールル号事件とトルコの恩返し

 

世界一、二の親日国

 アジアの最東端にある日本に相対して最西端にあるトルコは、世界一、二の親日国である。トルコに旅行した人はみなトルコ人が日本人に極めて好意的かつ親切であり、再び行きたくなると言う。

 地理的には遠い両国だが心情的には極めて近い。平成二十二年、彼の地で「トルコにおける日本年」の行事が盛大に催された。両国の交遊が始まった明治二十三年(一八九〇)、トルコ使節が来日したが、帰路トルコ軍艦エルトゥールル号が紀州沖で遭難した。この不幸な事件がおきたとき、大島村住民が救護活動に献身的努力を傾け六十九人のトルコ人を救出して本国に送り還したことに、トルコ国民がいたく感激した。それがトルコ親日の礎になった。

 アジア大陸の西の果てにあるトルコについて極東の日本人がほとんど知らないのは無理もないが、トルコは過去百二十数年間、日本を敬愛し続けてきたのである。トルコ人がかくも日本人を親愛しているのに我々日本人がそれを知らないでいるなら、それはトルコ人に対してまことに相すまぬことであり人情にももとる。

 

トルコ使節の来日

 明治二十三年、トルコ政府の使節が海路はるばる来日した。使節派遣のきっかけは明治二十年、小松宮こまつのみや彰仁あきひと親王のトルコ訪問である。親王はトルコ皇帝アブデュルハミト二世に明治天皇からの贈り物を贈呈し、皇帝は親王を歓待した。翌年、明治天皇は親王厚遇の返礼として同皇帝に感謝状と漆器しっきを贈られた。

 その答礼としてエルトゥールル号が派遣されたのである。当時のトルコはオスマントルコ帝国である。十三世紀末に誕生し、一四五三年にはコンスタンチノープル(今のイスタンブール)を陥落させ東ローマ帝国を減ぼし、以後中東、ヨーロッパ、北アフリカにまたがる大帝国を築いたが、十九世紀に入ると国力が衰退し欧州列強の圧力が強まった。そのようなとき日本への使節派遣となったが、使われたエルトゥールル号は二三〇〇余トン、全長七六メートルの蒸気機関つき木造帆船で老朽艦であった。当時のトルコは露土ろど戦争(一八七七〜七八)でロシアに敗れ、国運が傾いていた。

 

 エルトゥールル号が出発したのは明治二十二年七月、日本到着が翌年六月である。かくも日時を要したのは途中故障し修理に手間どった為である。明治二十三年六月七日、エルトゥールル号は横浜に入港した。使節団は団長オスマン・パシャ海軍少将以下総勢六百六十余名である。六月十二日、明治天皇はオスマン・パシャ少将始め随員に謁見を賜り歓迎の宴を催された。こうして友好親善の大役を果たした使節団はまもなく帰国せんとしたが、運悪くこのときわが国内にコレラが流行していた。エルトゥールル号乗組員も感染してしまい、十二人が次々に亡くなるのである。このコレラ事件で帰国が大幅に遅れ、出発が九月になった。日本当局は台風の時期だから艦をよく修理した上、時期を遅らせて出航するよう勧告したが、帰還費用も乏しくなっていたため九月十五日出港した。

 

エルトゥールル号の遭難

 九月十六日、エルトゥールル号は紀州沖で台風に遭遇した。その日夕方暴風雨が襲い、大帆柱が折れ舵が壊れ激しい浸水となり午後九時半頃、船は串本沖大島の樫野崎かしのざき付近の岩礁に衝突、大爆音とともに船体が真二つに割れて海中に沈んだ。六百五十六名中、オスマン・パシャ少将以下五百八十七名が犠牲となる大海難事故であった。

その日午後十時十五分、和歌山県東牟婁ひがしむろ郡大島村樫野崎にある樫野崎灯台に、ほぼ全裸の血を流した男がよろめくように入ってきた。男は「トルコ」とだけ言い、船が沈没したことを手ぶりで示した。そのあとすぐ同じく傷ついた男たちが数人やってきた。灯台の二人の職員は懸命に応急手当をした。

 灯台職員はこの海難事故をすぐさま樫野地区区長に通報した。大島は串本町のすぐ沖合にある東西約六キロ、南北三キロの小島で、大島村は西側の大島地区、灯台のある東の樫野地区、南側の須江地区の三つに分れ、村役場は大島地区にあった。当時四百九戸、人口二千余である。

 

沖村長・斎藤区長の迅速な対応

 はじめに知らせを受けた樫野地区長、斎藤半之助は直ちに翌十七日早朝より村民を指揮し生存者の救助活動を開始した。樫野の海岸は四十メートルもの絶壁である。海岸には船から投げ出され重軽傷を負った数十名のトルコ人が横たわっていた。村人らはこの人々を絶壁を登って救い上げたのである。村の若い衆が負傷者一人一人を兵児帯へこおびで縛って背負い、後ろからべつの者が尻を押す。トルコ人を背負った村人は崖の上から垂らされた綱に掴まり、上にいる者が引っ張り上げる。また海岸までたとりつけず沿岸の岩場で動けなくなった人もいた。村人は舟を出して海岸まで運び崖の上までかつぎ上げた。

 遭難者はすぐ近くのお寺に収容された。斉藤区長始め村民男女はこぞって救護活動に当たり、大島村の三人の医師が傷の手当をした。村民達はトルコ人の身体の血や汚れをきれいに洗い、ほとんど裸同然の彼らに衣服を与え布団を並べて休ませた。また炊きたての握り飯と温い芋汁を与えた。大島村では白米は一年のうち正月と盆にしか食べられない貴重品である。更に焼きたての鶏肉まで出された。また長時間海水につかり疲労困憊こんぱい、体が冷え切った人々に対しては布団に寝かせ、村の若者二人がふんどし一つになって両側から抱きかかえて体を温めてやった。言葉は通じなかったが「しっかりしろ」と声をかけて励した。

 

 大島村長はおきあまねである。明治二十二年の市町村制施行により初代村長(民選)になった人望の厚い立派な人物であった。斎藤区長から知らせをうけた沖村長はまず大島村が属する東牟婁郡郡役所及び和歌山県庁に通知を出した。そのあと役場職員、警察官らを伴い、食料品も準備して樫野地区へ急行した。

 到着した沖村長は部下に遭難現場に行かせ、漂着遺体と沈没船の物品の保安に従事させた。同時に比較的元気な者に対して尋間を行った。そのとき大島港に台風を避けて寄港していた一船長(日本人)がいたが、彼は英語を解した。トルコ人生存者の中にも英語に通じる者がいたのでようやく事件のあらましが分ったのである。来日したトルコ軍艦の遭難であり、死者五百八十余名、使節団長もまた犠牲となったことが判明したので、沖は和歌山県庁、海軍、兵庫県知事はやしただす等に通報した。またその日、これまで判明した事実を書類にして県庁、郡役所に送った。さらに翌日から行う遺体収容等の手配をすませた。沖村長はこの突発事故において、きわめて迅速かつ適切な対応をしたのである。

 

大島村民の献身的救護

 翌十八日、樫野地区に収容されていた生存者のうち四十五人が、村民達により大島地区の蓮生寺れんしょうじに船で移された。樫野地区では大龍寺などが手狭で十分な看護が出来ずまた食料の調達等が不便であったからである。十九日には全員が運ばれた。こうして生存者の救護はこの日から大島地区に移り、樫野地区では遺体や漂着物の収容並びに遺体の埋葬が村民達の手によって続けられたのである。

 九月十七日以来、樫野地区はもとより須江、大島地区の村民たちは自分達の生活を中断して生存者の救護活動、遺体収容活動に献身した。大島村民は半農半漁の生活である。村民の大半は海の男で、遭難した者があればどこの国の人間でも助けるのは彼らにとり当然のことであった。村民は生存者の救護活動すなわち負傷者の運搬、医師の手当の手助け、彼らの食料のまかないを生存者が大島を離れる九月二十一日まで行った。大島は決して裕福な村ではなかった。ことにこの年は穀類の収穫も漁獲量も少なく食料事情の悪い年であったが、村民はトルコ人生存者に非常用の備えである甘藷(かんしょ)等を惜しまず提供した。衣類も家にあるものを持ち寄って与えた。この大島村あげての献身的救護活動に六十九人の生存者は身を震わせて感謝し感激・感泣したのである。

 

 村民たちの献身はそれだけではなかった。より苦労したのは遺体の捜索・収容・埋葬の仕事である。海が荒れていない日は毎日、数隻の船を出し遺体の捜索・収容作業が行われた。それは十月半ば頃まで続いた。最終的に収容された遺体は三百三十人に上った。

 遺体は樫野崎に埋葬され、明治二十四年二月、埋葬地に「土国とこく(トルコは漢字で土耳古と書く)軍艦遭難之碑」が建立され、三月七日、沖村長はここで追悼式を挙行している。こうした外国人遭難者に対する救護、遺体埋葬、遺品回収そして慰霊行事という日本人の仁慈じんじに満ちた行為を後に知ったトルコ国民はみな泣いて感謝したのである。明治二十六年、この大島村民の義挙ぎきょに対してトルコ政府は深甚なる謝意を表し、大島村に三千円(現在の価値では約六千万円)を贈った。村議会はこの用途を協議、村の基本財産とした。

 

 九月二十一日、生存者は船で神戸に送られ、そこで負傷者の治療を続け、トルコヘの送還を待つことになった。負傷者は神戸で皇室から派遣された侍医、日本赤十字社医師による手厚い治療を受けた。重傷者が十三人、軽傷者が三十六人、残りが無傷であった。この治療には五人の看護婦がついた。

 明治天皇はエルトウールル号の遭難にことのほか心を痛められ、生存者を深くいたわられた。皇后陛下は全員にフランネルの病床衣類を贈られた。その厚い御心に一人として泣かぬ者はなかった。小松宮彰仁親王も全員に菓子を贈られた。その他いろいろな方面から見舞の品が寄せられた。

 


生存者の送還―― トルコ官民の大歓迎

 日本政府は生存者を軍艦二隻(比叡・金剛)をもってトルコに送還した。同年十二月二十七日、スエズ運河を通過してポートサイド港に到着、この地で生存者全員を引渡した。生存者は日本の水兵に抱きつき頬をすり寄せて別れを惜しんだ。こうして生存者引渡しが無事終了したあと明治二十四年一月二日、両艦はダーダネルス海峡を通過し、コンスタンチノープルに入港した。

 田中綱常つなつね大佐始め日本海軍将兵はトルコ官民の大歓迎を受けた。田中は到着当日、 一刻も早く明治天皇の結構な贈り物を受けたいとの皇帝の懇望こんもうにより即刻、大花瓶、金製太刀たちなどの贈物を渡した。

 

 一月五日、両艦長と士官は馬車に分乗して宮殿に向った。到着すると首相、外相ら高官が出迎えた。田中はアブデュルハミト二世に拝謁、明治天皇の親書を捧呈ほうていした。皇帝は厚く生存者送還の礼をのべた。夕方からは皇帝臨席の盛大な歓迎宴が催され、文武の大官が出席した。以後四十日間、田中らは各所で熱烈な歓迎攻めにあった。その間、海軍兵学校、海軍造船所等を見学した。また皇帝の要望で剣道、柔道、相撲を披露した。

 二月七日、最後の歓待を受け、皇帝に拝謁、陪食ばいしょくのあと、明治天皇への親書を受領した。その際、皇帝は様々な貴重品を明治天皇に贈呈した。

 二月十日、コンスタンチノープルを出港する時、海岸に群集したトルコ人はハンカチを振り声をはりあげて別れを惜しんだ。比叡、金剛の乗組員たちも日に涙をたたえて別れを告げた。

 両艦は五月十日、品川に到着した。田中大佐は明治天皇に送還の一部始終について奏上した。また天皇は比叡に同乗してやってきたトルコ特使、侍従武官メーメッド・ムラーベ大尉を引見、勅語を賜った。

 

 エルトゥールル号の遭難という不幸な事件が、アジアの両端に位置する日本トルコ両国の間に深い親睦と友好の懸橋を結ばせたのである。この百二十数年前の佳話がこれまでわが国でほとんど知られなかったのは、宝物を見捨てるようなもったいないことである。トルコ国民に極東のサムライの国、義侠ぎきょうの民という強烈な印象を刻みつけたのが、エルトゥールル号遭難事件であった。

 

国民の同情と義捐金

 エルトゥールル号の遭難が新聞に報じられるや、多くの国民の同情が湧き上った。東京日日新聞は「同情相愍あわれむ」と題してこう論じた。

 「全権使節水師(すいし)副提督オスマン侯を初め艦長士官水夫五百八十余名が溺死して海底の藻屑もくずとなれり。鳴呼(ああ)故郷を去る万里、来東らいとう外客がいきゃくやからを故山に遺し身を波濤にゆだねぬ。およそ人この悲報を聞きて誰か為に涙濳然さんぜんたらざるものあらんや。政府もこれを見殺しにするはずはないだろうが、我々国民も義金を募って遭難者の救護に当たるべし」

 こうして同新聞始め各新聞等が大々的な義捐金ぎえんきん募集活動を開始した。募金は九月末から十月上旬迄の短期間だったが、人々は進んで協力した。最も多くの義捐金を集めたのは時事新報で四千二百余円(約八千万円)である。その中には「日本帝国海軍高等官及婦人」の名で千五百円もの寄付があった。東京日日新聞が四百三十円、大阪朝日新聞が百五十四円、毎日新聞が百二十八円、神戸又新日報が五十三円である。いかに人々の同情が深かったかがわかる。これらの義捐金は直ちにトルコに送られた。

 

山田寅次郎

 義捐金募集は新聞社だけではなく、民間の団体や個人においても行われた。その中で殊に大きな募金活動を行ったのが山田寅次郎とらじろうという二十四歳の若者である。山田はやがて多額の義捐金を携えて自らトルコに行くことになる。この山田こそ後に「民間大使」として両国間の友好親善に最大の貢献をした人物である。

 

 山田は慶応二年(一八六六)、上野こうずけ(群馬県)の沼田藩士の家に生まれた。藩主は土岐とき氏、三万五千石の徳川譜代ふだいで当時の藩主土岐とき頼之よりゆきは桑名藩主松平定永の六男である。寛政の改革を行った松平定信の孫であり、兄は徳川慶喜のもとで老中首座をつとめた板倉勝重である。頼之は幕府の若年寄にもなった。

 寅次郎の父は中村莞爾かんじ、家老職をつとめる家柄であった。しかし譜代大名であり桑名藩が官軍に抗したこともあり、維新前後、沼田藩は苦難を味わう。中村一家は維新後上京し、寅次郎は小学校を経て、漢学、英語、ドイツ語、フランス語等を学んだ。語学をものにして海外で仕事をしたいという希望をすでに十代の時に抱いていたのである。十六歳の時、茶道宗徧そうへん流第七世山田宗寿そうじゅの養子になった。茶道師匠としての働きは後年になってからである。

 熱心に外国語を修得した寅次郎はすぐれた人格、才能をもち生涯武士の精神を抱き続けた。寅次郎は二十代はじめより出版、著述に携わった。明治二十一年、二十二歳のとき雑誌を発行、翌年、自著を出している。その頃、政治活動にも関わった。条約改正問題が最重要の政治課題であった時である。寅次郎は鳥尾小弥太こやた(元長州藩士、陸軍中将)の率いる保守派の中正社の社員になり、当時世を覆った欧米崇拝の風潮、欧化主義に反対する運動に加わった。毅然たる武士の魂をもつ寅次郎は烈々たる尊皇愛国の士であった。寅次郎が交際した人物は他に新聞『日本』を創刊したくが渇南かつなん や幸田こうだ露伴ろはん、尾崎紅葉、福本日南にちなん饗庭あえば篁村こうそんなどの文人がいる。

 

義捐金をトルコに持参

 エルトゥールル号の遭難に深く同情した寅次郎は既に交流のあった新聞関係者のつてを頼り新聞社の協力を得て、各地で演説会や演芸会を催して募金を行った。「土国とこく遭難者弔慰ちょうい金募集大演説会」「土国軍艦遭難遺族義捐大演会」と銘打って開催したが、どこでも多くの人々が来場して募金に協力を惜しまなかった。募金活動は一年以上続いたが、義捐金は総額五千円(約一億円)に上った。

 寅次郎はその金を携えて時の外相青木周蔵を訪ね送金方法を尋ねたところ、青木は山田の行為を称えて「これは君の義心にでしものなれば君自ら携えトルコに赴いたらどうか」と強く勧めた。青木外相は海軍が所用でフランスに行く為に雇ったイギリス船に便乗する手配をしてくれた。

 

 明治二十五年一月三日、寅次郎は横浜港を出発した。時に二十六歳。以後二十年以上にわたるトルコでの生活が始まるのである。三月七日、英船パサン号はエジプトのポートサイドに着きここでトルコ行の船便を待ち、四月四日、イスタンブールに到着した。翌日、寅次郎はトルコ外務省に出向き、義捐金を無事手渡した。日本の一青年の行為はトルコ政府を驚嘆させ、それはすぐさま皇帝に伝えられた。

 

皇帝の歓待と寅次郎への信頼

 数日後、寅次郎はトルコ皇帝アブデュルハミト二世に拝謁した。皇帝は一年以上も募金活動を行い遥々トルコまで多額の義捐金を持ってきてくれた寅次郎の義侠心に心から深い謝意を表明した。寅次郎はこのとき中村家伝来の鎧兜よろいかぶと陣太刀じんだち奉呈ほうていした。皇帝はこの贈り物を喜び、寅次郎にメジディエ四等勲章を授けた。この時皇帝は寅次郎にこう要請した。

 「トルコは日本との修好及び通商を年来希望しつつあるが、それは第一に双方がお互いの言葉を理解する必要がある。よってしばらく滞在して当国の陸海軍士官若干名に日本語を教え、また貴下には教師をつけてトルコ語を教えたい」

 意外な皇帝の言葉であった。皇帝は一見して寅次郎の表情、言葉、態度からにじみ出る凛然りんぜんたる日本武士の風格に魅了されたのである。無位無官の年若の一民間人にすぎなかった寅次郎であつたが、こうして破格の待遇を受けるのである。

 心ひそかにこのたびのトルコ行きにより両国の交通を開こうと思った寅次郎にとり、皇帝直々じきじきのこの要請は願ってもないことであった。こうして寅次郎は陸軍士官学校に一室を与えられ、陸軍士官六人、海軍士官一人に日本語を教えることになった。英語などを修得していたことがこのとき役立つのである。また同時に寅次郎はトルコ商品陳列館の日本における代理人も委嘱され、「将来日土両国間の貿易に従事してほしい」と重ねて皇帝の要請を受けたのである。

 

 トルコ皇帝はかねて小松宮こまつのみや彰仁あきひと親王や黒田清隆(第二代内閣総理大臣)らのトルコ訪間により日本に浅からぬ関心を抱いていた。元来遊牧民であるトルコ民族は東アジアの高原地帯から西進しやがてアナトリア高原に定住したが、人種的には同じアジア民族であったことも親近感を抱く理由である。トルコは人種の坩堝るつぼといわれ、トルコ人、ギリシャ人、アルメニア人、ペルシャ人、アラブ人等多くの人種が、長年月間に混血に混血を重ねた結果、西洋人ぽい人が多く今日、トルコ人本来の顔立ちはほとんど失われている。トルコ人に言わすと本来の顔立ちは日本人のような顔貌だそうだ。トルコ人の宗教はイスラム教だが、欧米のキリスト教国には長年抑圧されてきたから、キリスト教国の品物を買うより日本の品物を買った方がよいと考えるようになっていた。

 そのようなときエルトゥールル号が遭難したが、日本は生存者を厚遇し軍艦をもって送り還してくれた。皇帝はじめ国民が日本と日本人に深い親愛と尊敬の念を急速に抱き始めた。日本人が義侠心に富むとともに贈り物に象徴されるように工芸品が非常に発達し、かつ東アジアにおいて益々発展を遂げつゝあることを知って日本との修好、通商を強く願望したのであった。

 寅次郎は翌年、皇帝からトプカプ宮殿の帝室博物館に収蔵されている多くの東洋美術工芸品を分類し目録を作成するよう依頼された。美術、工芸の造詣ぞうけいも深かった寅次郎はこの後数年間、日本語の授業とともにこの仕事に尽力した。こうして寅次郎はトルコ皇帝の厚い信頼を受け期せずして両国の友好、親善の懸橋となる生涯を送ることになる。

 

「民間大使」として大活躍

 以後、寅次郎は大正三年(一九一四)まで一時の帰国を除いて二十年以上にわたりトルコに滞在した。その間、両国間の通商、貿易を推進するため種々尽力した。また皇帝よりわが国の古い絵や鳥類の収集を依頼され、 一時帰国してこれにこたえている。寅次郎の最も大きな功績の一つは、両国の正式な外交関係樹立の為努力したことである。ウムット・アルクは『トルコと日本― 特別なパートナーシップの一〇〇年』においてこうのべている。

 「この間、両国の外交関係の正式樹立を支持する人々は両国の友好の進展に努めた。なかでも日本側では、第一に山田寅次郎の名をあげなければならない。山田は博愛主義の人でエルトゥールル号乗組員の遭難義捐金を持ってトルコに渡り、その後長期間イスタンブールに滞在し、また日本からトルコ皇帝アブデュルハミト二世への贈物を運んだ人物である。生涯、親トルコ家として日土友好に尽力した山田は後に茶道界の指導者としても知られる茶道宗徧流八世家元山田宗有そうゆうである。山田は宮廷において皇帝と側近の高官たちに茶の湯の点前てまえを披露したが、日本の茶道が海外に紹介されたのはこれをもって嚆矢こうしとする。彼の家族や子、孫たちもトルコの親しい友であり、我々は彼に深く感謝している」

 

 日本とトルコの正式な外交関係は、トルコ共和国が成立(大正十二年・一九二三年)した翌年である。

 

 また寅次郎はトルコを訪れる日本人の面倒を見た。通訳、案内その他寅次郎の世話にならぬ日本人は一人もいなかった。東伏見宮ひがしふしみのみや依仁よりひと親王、乃木のぎ希典まれすけ近衛このえ篤麿あつまろ、寺内正毅まさたけ、福島安正、徳富とくとみ蘇峰そほうら有名無名を問わず、寅次郎は誠意を尽した。二十余年間トルコにあってほとんど一人、八面六臂はちめんろっぴの活躍をしたのであった。

 


日露戦争と寅次郎

 日露戦争が始まった時、問題となったのは、ロシアが黒海艦隊を極東に派遣するかいなかであつた。そこで駐オーストリア公使牧野伸顕のぶあきが寅次郎に黒海艦隊の動向を秘密裡に監視してほしいと要請した。欣諾きんだくした寅次郎はボスポラス海峡の入口にある一軒家を借り、連日、望遠鏡で監視をつとめた。またイスタンブールの高台にある六十メートルのガラタ塔でトルコ人二十人を雇い交代で昼夜監視させた。

 明治三十七年七月四日、寅次郎は怪しい船を発見した。ロシア義勇艦隊の三隻が貨物船を装い食料、軍需品を積み出航せんとしているところであった。寅次郎は直ちに牧野に報告、牧野は外務省に通報した。偽装した軍艦中二隻はやがてアフリカ東部の沖合でバルチック艦隊に合流した。

 

 日露戦争後、小村寿太郎外相は寅次郎のこのときの働きを含めそれまで長年日土友好に尽した功績を表彰して、銀七宝しっぽう花瓶一組を感謝状とともに贈っている。トルコ人が日露戦争をどう見たかにつき寅次郎はこうのべている。

「日露戦争起るや土国上下の我に対する情誼は実に誠欸(せいかん)敦厚(とんこう)(誠の心が厚いこと)を極め、皇帝陛下は直ちに陸軍少将ペルテップパシャを派して我に従軍せしめ(観戦武官として派遣すること)、日夕にっせきその報道をそうしめ、国民は吾が赤十字社および新聞社等に金円を寄托きたく(寄付すること)、戦役負傷者等を慰問せる者陸続せり。(私)は日清戦争、北清事変、日露戦争の当時を通じて土国に在りしが、新聞紙上その他において我が国の武勇、義侠ふたつながら他邦に卓絶せるものあるを嘆賞し、あわせてオスマン帝国の祖先もまた同じくアジア人種なるをかたり、以て日本人を敬慕すること殊に深く、かみ帝室よりしも一般人民に至るまで吾人ごじんを歓待すること他に比すべきなし。予はまた召されて皇帝陛下に謁見の栄を得たること前後三回、居常きょじょう悠々身の異域万里の外に在るを忘れ、ついに土国を以て第二の故郷と思惟しいするに至れるもの決して偶然にあらざるなり」

 

 長年たびたびロシアと戦い敗北を続けてきたトルコ人は日露戦争の勝利に感嘆、驚喜した。このとき生まれた男子に「トーゴー」「ノギ」と名づけることが流行し、イスタンブールの一街路が「トーゴー通り」と名付けられたりした。皇帝アブデュルハミト二世は、「我々は日本人の成功を衷心ちゅうしんから喜ばなければならない。ロシア人に対する日本人の勝利はすなわち我々の勝利である」とのべた。また一トルコ人は、「日本の生死は東洋全体の生死であります。日本の進歩と発展とは全東洋世界の願望であり、今日東洋人はみな己れの生存を日本人の生存と一体のものと考えております」とのべている。

 

 日露戦争の勝利がいかに世界史的意義を有するか、欧米列強の抑圧を受けてきた他国他民族の人々がかえって正確に捉えているのである。

 

日土貿易協会の設立

 日本とトルコは大正十三年(一九二四)、国交を樹立し、翌年、東京とイスタンブールに大使館が開設された。同年、寅次郎の尽力により日土にっと貿易協会が設立され、寅次郎は理事長に就任した。日本からは繊維品、茶、工芸品等を輸出し、トルコからは綿花、羊毛、羊皮、山塩等を輸入することになった。その翌年、イスタンブールには日本商品館が開設されたが、日土貿易協会がその運営に当たった。また大正十五年(一九二六)、東京に日土協会(日本トルコ協会の前身)が設立されたが、寅次郎はこれにも尽力した。日土協会は高松宮たかまつのみや宣仁のぶひと親王を総裁に戴き春秋二期、会合を催したが寅次郎は通訳として活躍した。

 

 寅次郎は昭和六年(一九三一)、同会理事長として十七年ぶりにトルコを訪問した。イスタンブールでは大勢の旧友、知人らが歓迎してくれ懐旧の情にふけった。寅次郎の来訪は新聞記事にもなり、連日人々が宿舎に押し寄せた。その一人がエルトゥールル号で遭難した使節団長オスマン・パシャの令嬢である。彼女は「あなたが当時義捐金ぎえんきんを持つてわが国に来られ、十数年滞在されたと聞いています。どうかその当時の父一行の詳しい遭難談を話して下さい」と望んだ。そこで寅次郎が一時間以上も語ると彼女は感泣して、「ぜひ私の家に来てほしい。亡父が愛用していた琥珀こはくパイプを記念としてさし上げたい」と言った。以後、寅次郎は二、三度彼女の家を訪問している。

 そのあと寅次郎はケマル・パシャ大統領よリトルコ共和国記念祭の招待をうけ、首都アンカラに出向いた。大統領は親しく寅次郎にこう語った。

 「私はあなたと面識があります。昔、イスタンブールの士官学校であなたが日本語を教えていたころ、私も少壮将校の一人としてあなたを見知っていました」

 大統領はなおこの上にも日土貿易に尽力してほしいとのべた。トルコ共和国建国の父と仰がれるケマル・パシャは終生大統領の職にあり、トルコの近代化と発展に最大の働きをした人物である。彼はトルコ国民議会から「アタチュルク」(父なるトルコ人)という尊称を贈られ、以後ケマル・アタチュルクとよばれ、今もトルコ人が最も尊敬してやまぬ人物である。彼は自室に明治天皇のご肖像を掲げ日本を見習いトルコの改革に一生を捧げた親国家でもあった。

 

追悼祭

 昭和三年八月五日、大島村樫野崎で日土貿易協会の主催によってエルトゥールル号遭難者の追悼祭が盛大に行われた。資金の募集、祭典の準備等万端において最も尽力したのは寅次郎である。初代駐日トルコ代理大使フアット・ベイも喜んで参列した。

 追悼式にはほかに、商工省代表、和歌山県知事、大阪府知事代理、大島村長、稲畑勝太郎日土貿易協会会長(大阪商工会議所会頭)らが参列した。祭主は稲畑会長、寅次郎は副祭主をつとめた。

 

 祭典は祭主が神前に祭文を誦じ殉難将兵の英霊を慰め、次いでフアット・ベイ代理大使がトルコ語で弔詞を捧げた。寅次郎はその訳文を朗読した。次いで日本政府の外相、海相、商工相、逓信ていしん相らの弔電が披露された。その後、和歌山県知事、大阪府知事、大島村長、そして寅次郎らの弔詞が続いた。最後に大島小学校児童代表により玉串が捧げられた。この日は雨天の為、やむなく祭典は大島小学校で挙行されたが、翌日、天気は回復、現地樫野崎において厳粛な墓前祭が行われた。この式典を記念して樫野崎に慰霊碑を建立することとし、十年毎(現在は五年毎)に慰霊祭を行うことが決定された。翌年四月五日、慰霊碑が完成した。

 

トルコ政府の慰霊碑建立

 昭和四年六月三日、昭和天皇が樫野崎に行幸され、エルトゥールル号遭難者の墳墓を訪れ碑前において挙手敬礼された。これを伝えきいて感激したのがケマル・アタチュルク大統領である。彼は樫野崎に新たな慰霊碑を建立せんと決意した。

 昭和十一年四月、まず各所の墓地に埋葬されていた人々の遺骨を一ヶ所にまとめこれを新たに造る慰霊碑の真下に埋めるひつぎに安置した。墓地の場所は旧墓地を拡張したもので用地は大島村が提供した。新慰霊碑は大理石造りで一二・七五メートル、トルコ式の高塔で、碑の正面の題字は「土国とこく軍艦遭難之碑」である。墓地改修及び新慰霊碑建設の費用は用地(七四六平方メートル)を除きトルコ政府が出した。完成は昭和十二年六月三日、昭和天皇が行幸された吉日である。この日、除幕式及びエルトゥールル号遭難五十周年追悼祭(二年後に行われる予定だったが繰り上げられた)が盛大に行われた。参集者は五千名に及んだ。

 

 その翌年、ケマル・アタチュルク大統領が急死、第二次大戦ではトルコが連合国側についた為、両国の親善関係は一時中断された。しかし大島村では遭難以来、五年ごとに犠牲者の慰霊祭を休むことなく継続し、地元住民、樫野小学校小学生たちが戦前から墓地の清掃作業を続け、戦争中も欠かさなかった。駐日大使や大使館付武官が大島に来た時は必ず樫野小学校を訪れお礼の言葉を述べている。昭和五十三年、樫野小学校創立百周年記念式典の時、ジェラル・エイジオウル駐日大使は次の言葉を寄せた。

 「本日、樫野小学校創立百周年記念の式典が挙行されるにあたり、お祝いの言葉を送ります。この事はトルコ大使の私にとりましても無上の喜びとするところであります。衷心よりお祝い申し上げます。皆様もよくご承知の通り樫野小学校には特にトルコ国政府及びトルコ国民にとりまして、明治二十三年、オスマン帝国の親善使節の乗艦エルトゥールル号がその帰途、当地の樫野崎沖合に遭難して以来、八十八年間本当に長い間お世話になりました。

 移り変りの激しい世の中でありますが、樫野小学校とトルコ国との国い絆は何のゆるぎもなく永遠に変ることなく子々孫々に受け継がれ、日土親善の礎となることでありましょう。この佳き日に当たり、樫野小学校が次代を担う世代の教育に一層励まれ、二百周年への到着点を目指し出発点とならんことを衷心より祈るものであります」

 

 樫野小学校は現在統合されて串本町立大島小学校となっているが、今でも毎年十一月、全校生徒で墓地の清掃作業に当っている。なお昭和四十九年には慰霊碑の近くにトルコ記念館が建てられた。

 寅次郎は日土貿易協会理事長のほか実業家として製紙会社を経営、かつ宗徧流八世山田宗有としても活躍、昭和三十二年、九十歳の天寿を全うして亡くなった。最晩年の昭和二十六年、寅次郎はこう人生を回想している。

 「明治時代の青年は東洋の君子国としての誇りを持ち、諸外国に侮りを受けることのないよう張り切っていました。それがトルコ軍艦エルトゥールル号の義捐金ともなったのでした。そしてその為私は思わぬ幸運に恵まれ、まるで龍宮に行った浦島太郎のようにトルコで優遇されました。まるで夢のようです」

 


オザル大統領の英断と義心

 「なさけは人の為ならず」という。トルコ人にほどこした恩愛はめぐりめぐって九十五年後、日本人に返されたのである。

 

 イラン・イラク戦争が行われていた昭和六十年(一九八五)三月十七日、イラク政府は突如「三月十九日午後八時三十分以降、イラン上空を航空禁止区域とし、上空を飛ぶ全ての航空機を無差別に攻撃する」との声明を出した。戦闘が激化し連日テヘラン市内に爆弾が投下された為、イランの日本大使館は前日十六日、邦人に出国勧告を出していた。

 在イラン日本人は出国を急いだが、当時日本の航空会社はイランに乗り入れていなかった(イラン革命以後の政情不安のため)。そこで外国の航空機に頼るしかなかったが、どこの国も自国民の脱出を優先するから、邦人の大半が座席を確保できなかったのである。テヘランに取り残された在留邦人は三百三十八人もいた。各国も自国民の脱出で手が一杯であった。

 

 野村豊駐イラン大使はすぐ外務省に救援機派遣を要請したものの、外務省は不決断で結局出さなかった。焦慮した大使は親交のある駐イラン・トルコ大使イスメット・ビルセルを訪ね、救援機一機を出してくれるよう懇請した。大使自身いかに自国民を救出するか悩んでいたところにこの要請だから困惑したに相違ないが、大使はすぐさま「日本人を救う為、大至急救援機を飛ばせないか」と本国政府に打電してくれた。

 一方、イスタンブールの伊藤忠商事支店長森永たかし氏は本社からトルコのトゥルグット・オザル首相に依頼してトルコ航空に救援機を出してもらうよう交渉せよとの指示を受けた。氏はオザル首相と十年来の親交があつたからである。首相はいつも氏を「親友モリナーガさん」と呼んでいた。しかしいかに親友とはいえ一国の首相にこのようなことを頼めるのかと思い悩んだ。だが一刻も猶予は許されない。森永氏は直接電話し単刀直入こう頼んだ。

 「トゥルグット・ベイ(ベイは〇〇さん)。トルコ航空に指示を出して、テヘランにいる日本人を救助して下さい。これはイランにいる日本人が困っている話なので、イランと日本の間の問題であり、本来トルコには何の関係もない話です。イランの航空機あるいは日本の航空機が救援すべきなのです。しかしイランの航空機は戦闘中なので便数に余裕がありません。日本の航空機は救援機を出しても遠すぎて警告期限に間に合いません。今、日本にとって頼れる国はトルコしかないのです」

 しばらく沈黙が続いた。やがてオザル首相は、「わかった。心配するな、モリナーガさん。後で連絡する」といい、数時間後、「万端、準備した。心配するな、親友モリナーガさん」と電話してきた。

ビルセル大使から野村大使に「明日、トルコ航空が日本人のために特別機を飛ばす」との電話が入ったのは撃墜予告の二十五時間前であった。オザル首相はこのとき森永氏に「我々はあなた方日本人に恩返しをしなければいけません」と語った。

 

両国親善の固い絆

 トルコからの救援機二機は三月十九日の午後到着した。 一機に日本人百九十八名、二機目に十七人(残りはトルコ人)を乗せた。二番機が飛び立ったのは撃墜予告一時間前であった。こうしてイラン在留邦人は全員無事脱出できた(残り百余人はトルコ機以外の外国機で既に出国)。

 当時テヘランには六百人をこえるトルコ人がいた。そのうち救援機に乗ることができたのは百数十人だけで、残りの五百人近くはやむなく陸路車で脱出したのである。テヘランからイスタンブールまで車をとばして三日もかかる。つまリトルコ政府は自国民よりも日本人を優先したのである。森永氏はこうのべる。

 「こんなこと、日本だったらできるだろうか。こんなこと、日本だったら許されるだろうか」

オザル首相は外国人を優遇し自国民を粗末に扱ったという非難がまきおこるのは必至と氏は憂慮した。トルコ人はみな熱烈な愛国者であつた。しかしオザル首相への非難、批判は一切なかった。トルコでは教科書にもエルトゥールル号事件について書かれておりほとんどの国民が親日感情を抱いていたから、誰一人としてオザル首相の措置を問題にしなかったのである。

 

 この時、日本政府が救援機を出さなかった一つの理由が、航空機と乗務員の安全の保障がなかったからというものであった。森永氏は後でトルコ航空総裁になぜ救援機を出してくれたかを尋ねると、「日本人の安全の保障がなかったから、 一刻も早く日本人を救出するために出した」と答えた。

 トルコ政府の決断によリトルコ航空が救援機を出すに当って飛行士と客室乗務員を決める時、トルコ航空のオラル総裁はとくに熟練の機長を召集、大きな危険を伴う日本人救出活動に志願してくれる機長はいるかと問うと、機長達は一人残らず志願した。続いて客室サービス室長が客室乗務員候補者数名に対して、「これはとてつもなく危険な業務です。命を懸けてテヘランまで飛んでもいいという人にだけ正式な飛行命令を出します。どうですか」と問うと全員が志望した。すると隣室からオラル総裁が現われて拍手してこうのべた。

 「この瞬間ほど私はトルコ国民であることに誇りを持ったことはない。我々の手で日本人を救出しよう。百年前のエルトゥールル号の恩を今こそ返すのだ」

涙がこぼれてくるトルコ人の友愛である。本来日本政府がやるべきことをトルコ政府とトルコ航空が代ってしてくれたのである。オザル首相の英断、トルコ航空の義侠的行為に対して日本人はいかに感謝してもし過ぎではない。

 

 トルコの救援機が飛び立った時、日本人は一瞬悦んだがしかし安心は出来なかつた。撃墜予告時刻が迫っていたからである。やがて飛行機がイラン国境を超えた時、機長は英語で「日本の皆さん、ようこそトルコヘ」と告げた。 一斉に歓声が上がり割れんばかりの拍手が鳴り響いた。全員涙で顔をぐしゃぐしゃにした。なお、この時日本人は知らなかったが、トルコ政府は救援機二機にそれぞれ二機のトルコ空軍戦闘機を護衛としてつけてくれたのである。トルコ政府は空軍戦闘機を出動させて日本人を守ってくれたのだ。日本政府はこの時自国民を救出する為に飛行機も自衛隊も出さなかった。日本は正常な国家であろうか。

 

 トルコ政府の日本人救出の物語には後日談がある。平成二十二年(二〇一〇)、「トルコにおける日本年」の記念行事が国内三十二都市で開催されたが、イスタンブールで「日本・トルコ友情コンサート」が行われた際、二十五年前に救出された二人の日本人が招待された。二人は救ってくれた機長・飛行士と客室乗務員たちにお礼する為にやってきたのである。救出された時はあわただしくそれが出来なかったのだ。イスタンブールの日本領事館公邸において二人はこのとき八十四歳のオルハン・スヨルジェ機長らに涙ながらに御礼と感謝の言葉をのべた。その際、客室乗務員だったミュゲ・チエレヒという女性がほほえみつつこう語った。「実はあの時に私は妊娠していたんです。あの時〝日本人を助けるために戦下のテヘランに行ってくれるか″と上司に聞かれたんです。私は日本人を助けることができる機会だと思いました。私はどうしても日本人を助けたかったんです。そして大昔の恩を返したかったんです。日本人を助けにいけることを誇りに思いました。もし妊娠していることが知れたら、その尊い任務に私はつくことができません。仮にこの任務のことを夫に伝えても反対されて参加することができなかったでしょう。そこで私は妊娠の事実を会社に告げずに、そして夫にも任務のことを言わず黙って参加したのです」

 そう言ってかたわらの若い女性をひきよせて、「その時お腹にいたのが、この娘さんなんですよ」と告げた。

 二人は全身を揺すぶられ涙が溢れ出た。「ありがとう、本当にありがとうございます」そういうのがやっとであつた。恩、義理、人情は日本人の専売特許ではない。トルコ人は日本人に劣らぬ恩を知る民族であり、義理と人情をかくも豊かにもつ国民であるのだ。

 

 平成十一年(一九九九)、トルコ北西部に大地震がおきた。死者一万七千余人というトルコにおける二十世紀最大の天災であった。このとき義捐金募集に尽力したのがトルコ航空機で救出された商社、銀行員達であった。森永氏も世界中の同社員に呼びかけた。またこの時ばかりは日本政府の対応は迅速で緊急物資・無償援助百万ドルを各国に先駆けて提供した。また国際緊急援助隊を地震発生当日派遣した。この素早い対応と支援にトルコ人は感激した。

 

美しい心でつながる日本とトルコ

 平成二十三年、東日本大震災の時、トルコは救助隊を派遣、最も長く被災地に残り救助活動に尽力してくれた。同年十月、トルコ東部で大地震が起きたが、日本は支援の手を差し伸べ、現地で救援活動に当った宮崎あつしさんが殉職した。日本とトルコはかくも利害打算のない真の友好と親善の絆を長年保ってきたのである。当時の駐日トルコ大使セルダル・クルチ氏はこうのべている。

 「日本には武士道の精神があり、弱き者を助けようとする気高い心がありますが、トルコ国民が育んできた文化の中にも武士道に似通った側面があります。トルコ人も困難に直面した友に助けの手を差し伸べることは自らの義務だと考えます。

 串本に行って私たちの感謝を伝えようとするたびに、日本の皆さんは『大したことはしてないのに』とまるで恥ずかしがるような表情が浮かびます。それは『助けを求めている人に手を差し伸べるのは当り前で、人間なら誰でもやるべきをやっただけです』という表情だと感じます。同様に私もイラン・イラク戦争での日本人救出について日本の方々から感謝されることがありますが、やはり『大したことはしていないのに』という気持になります。

 エルトゥールル号事件やテヘランからの救助をより多くの方々に伝えるべきだといっても、そこで強調されるべきことは『助けてあげた』『感謝しましょう』ということではなく、『かくも素晴らしい人道的な友情関係が国際社会においてありうる』ということでないでしょうか。その『人間らしい心』そして『友情』をこそ皆さんに知ってもらいたい。この精神を私たちが失なわぬことが、日本とトルコにとってそして世界全体にとつて極めて重要だと思うのです。

 残念ながら世界では今も武力衝突や戦争が絶えません。その中で時間も国境も越えた友情で結ばれてきた日本とトルコの関係は非常に稀有といえるかもしれません。トルコ国民と日本国民は地理的な近隣関係でつながっているのではなく、お互いの『美しい心』でつながっているのだと思います。トルコ人と日本人は『心の隣人』なのです。

 目上の人や高齢者への敬意、そして子供を大切にし家族を重んじる心も日本人とトルコ人は非常に似ています。さらに日本人が神社やお寺を敬う精神性もトルコ国民の精神性に非常に共通すると思います。

 アジアの東西両端に位置し、精神的な深さ、豊かさ、強さを共に持ち合わせている日本とトルコの友情を今後一層深めていくことが、ひいてはアジア全体の平和と安定にも最も大きな貢献となるでしょう」

 

 エルトゥールル号遭難という不幸な事件をきっかけにこの百二十数年間、日本とトルコは国際間にほとんど例を見ないかくも厚い善意と親愛と尊敬の固い絆を結んできたのである。

 

〈初出・『明日への選択』平成二十二年十月号~十二月号/一部加筆・修正〉