岡田幹彦先生のご好意により、ご著書「親日はかくして生まれた」をこのHPで公開いたします。
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なお、この「日本トルコ友情の懸橋(1)」は、後日「スマホで読む『歴史講座』」第3話として掲載します。
※読みやすいように、文脈毎に改行しています。(岡田先生すみません)
日本トルコ友好の懸橋― エルトゥールル号事件とトルコの恩返し(一)
世界一、二の親日国
アジアの最東端にある日本に相対して最西端にあるトルコは、世界一、二の親日国である。トルコに旅行した人はみなトルコ人が日本人に極めて好意的かつ親切であり、再び行きたくなると言う。
地理的には遠い両国だが心情的には極めて近い。平成二十二年、彼の地で「トルコにおける日本年」の行事が盛大に催された。両国の交遊が始まった明治二十三年(一八九〇)、トルコ使節が来日したが、帰路トルコ軍艦エルトゥールル号が紀州沖で遭難した。この不幸な事件がおきたとき、大島村住民が救護活動に献身的努力を傾け六十九人のトルコ人を救出して本国に送り還したことに、トルコ国民がいたく感激した。それがトルコ親日の礎になった。
アジア大陸の西の果てにあるトルコについて極東の日本人がほとんど知らないのは無理もないが、トルコは過去百二十数年間、日本を敬愛し続けてきたのである。トルコ人がかくも日本人を親愛しているのに我々日本人がそれを知らないでいるなら、それはトルコ人に対してまことに相すまぬことであり人情にも惇る。
トルコ使節の来日
明治二十三年、トルコ政府の使節が海路はるばる来日した。使節派遣のきっかけは明治二十年、小松宮彰仁親王のトルコ訪問である。親王はトルコ皇帝アブデュルハミト二世に明治天皇からの贈り物を贈呈し、皇帝は親王を歓待した。翌年、明治天皇は親王厚遇の返礼として同皇帝に感謝状と漆器を贈られた。
その答礼としてエルトゥールル号が派遣されたのである。当時のトルコはオスマントルコ帝国である。十三世紀末に誕生し、一四五三年にはコンスタンチノープル(今のイスタンブール)を陥落させ東ローマ帝国を減ぼし、以後中東、ヨーロッパ、北アフリカにまたがる大帝国を築いたが、十九世紀に入ると国力が衰退し欧州列強の圧力が強まった。そのようなとき日本への使節派遣となったが、使われたエルトゥールル号は二三〇〇余トン、全長七六メートルの蒸気機関つき木造帆船で老朽艦であった。当時のトルコは露土戦争(一八七七〜七八)でロシアに敗れ、国運が傾いていた。
エルトゥールル号が出発したのは明治二十二年七月、日本到着が翌年六月である。かくも日時を要したのは途中故障し修理に手間どった為である。明治二十三年六月七日、エルトゥールル号は横浜に入港した。使節団は団長オスマン・パシャ海軍少将以下総勢六百六十余名である。六月十二日、明治天皇はオスマン・パシャ少将始め随員に謁見を賜り歓迎の宴を催された。こうして友好親善の大役を果たした使節団はまもなく帰国せんとしたが、運悪くこのときわが国内にコレラが流行していた。エルトゥールル号乗組員も感染してしまい、十二人が次々に亡くなるのである。このコレラ事件で帰国が大幅に遅れ、出発が九月になった。日本当局は台風の時期だから艦をよく修理した上、時期を遅らせて出航するよう勧告したが、帰還費用も乏しくなっていたため九月十五日出港した。
エルトゥールル号の遭難
九月十六日、エルトゥールル号は紀州沖で台風に遭遇した。その日夕方暴風雨が襲い、大帆柱が折れ舵が壊れ激しい浸水となり午後九時半頃、船は串本沖大島の樫野崎付近の岩礁に衝突、大爆音とともに船体が真二つに割れて海中に沈んだ。六百五十六名中、オスマン・パシャ少将以下五百八十七名が犠牲となる大海難事故であった。
その日午後十時十五分、和歌山県東牟婁郡大島村樫野崎にある樫野崎灯台に、ほぼ全裸の血を流した男がよろめくように入ってきた。男は「トルコ」とだけ言い、船が沈没したことを手ぶりで示した。そのあとすぐ同じく傷ついた男たちが数人やってきた。灯台の二人の職員は懸命に応急手当をした。
灯台職員はこの海難事故をすぐさま樫野地区区長に通報した。大島は串本町のすぐ沖合にある東西約六キロ、南北三キロの小島で、大島村は西側の大島地区、灯台のある東の樫野地区、南側の須江地区の三つに分れ、村役場は大島地区にあった。当時四百九戸、人口二千余である。
沖村長・斎藤区長の迅速な対応
はじめに知らせを受けた樫野地区長、斎藤半之助は直ちに翌十七日早朝より村民を指揮し生存者の救助活動を開始した。樫野の海岸は四十メートルもの絶壁である。海岸には船から投げ出され重軽傷を負った数十名のトルコ人が横たわっていた。村人らはこの人々を絶壁を登って救い上げたのである。村の若い衆が負傷者一人一人を兵児帯で縛って背負い、後ろからべつの者が尻を押す。トルコ人を背負った村人は崖の上から垂らされた綱に掴まり、上にいる者が引っ張り上げる。また海岸までたとりつけず沿岸の岩場で動けなくなった人もいた。村人は舟を出して海岸まで運び崖の上までかつぎ上げた。
遭難者はすぐ近くのお寺に収容された。斉藤区長始め村民男女はこぞって救護活動に当たり、大島村の三人の医師が傷の手当をした。村民達はトルコ人の身体の血や汚れをきれいに洗い、ほとんど裸同然の彼らに衣服を与え布団を並べて休ませた。また炊きたての握り飯と温い芋汁を与えた。大島村では白米は一年のうち正月と盆にしか食べられない貴重品である。更に焼きたての鶏肉まで出された。また長時間海水につかり疲労困憊、体が冷え切った人々に対しては布団に寝かせ、村の若者二人が褌一つになって両側から抱きかかえて体を温めてやった。言葉は通じなかったが「しっかりしろ」と声をかけて励した。
大島村長は沖周である。明治二十二年の市町村制施行により初代村長(民選)になった人望の厚い立派な人物であった。斎藤区長から知らせをうけた沖村長はまず大島村が属する東牟婁郡郡役所及び和歌山県庁に通知を出した。そのあと役場職員、警察官らを伴い、食料品も準備して樫野地区へ急行した。
到着した沖村長は部下に遭難現場に行かせ、漂着遺体と沈没船の物品の保安に従事させた。同時に比較的元気な者に対して尋間を行った。そのとき大島港に台風を避けて寄港していた一船長(日本人)がいたが、彼は英語を解した。トルコ人生存者の中にも英語に通じる者がいたのでようやく事件のあらましが分ったのである。来日したトルコ軍艦の遭難であり、死者五百八十余名、使節団長もまた犠牲となったことが判明したので、沖は和歌山県庁、海軍、兵庫県知事林董等に通報した。またその日、これまで判明した事実を書類にして県庁、郡役所に送った。さらに翌日から行う遺体収容等の手配をすませた。沖村長はこの突発事故において、きわめて迅速かつ適切な対応をしたのである。
大島村民の献身的救護
翌十八日、樫野地区に収容されていた生存者のうち四十五人が、村民達により大島地区の蓮生寺に船で移された。樫野地区では大龍寺などが手狭で十分な看護が出来ずまた食料の調達等が不便であったからである。十九日には全員が運ばれた。こうして生存者の救護はこの日から大島地区に移り、樫野地区では遺体や漂着物の収容並びに遺体の埋葬が村民達の手によって続けられたのである。
九月十七日以来、樫野地区はもとより須江、大島地区の村民たちは自分達の生活を中断して生存者の救護活動、遺体収容活動に献身した。大島村民は半農半漁の生活である。村民の大半は海の男で、遭難した者があればどこの国の人間でも助けるのは彼らにとり当然のことであった。村民は生存者の救護活動すなわち負傷者の運搬、医師の手当の手助け、彼らの食料のまかないを生存者が大島を離れる九月二十一日まで行った。大島は決して裕福な村ではなかった。ことにこの年は穀類の収穫も漁獲量も少なく食料事情の悪い年であったが、村民はトルコ人生存者に非常用の備えである甘藷(かんしょ)等を惜しまず提供した。衣類も家にあるものを持ち寄って与えた。この大島村あげての献身的救護活動に六十九人の生存者は身を震わせて感謝し感激・感泣したのである。
村民たちの献身はそれだけではなかった。より苦労したのは遺体の捜索・収容・埋葬の仕事である。海が荒れていない日は毎日、数隻の船を出し遺体の捜索・収容作業が行われた。それは十月半ば頃まで続いた。最終的に収容された遺体は三百三十人に上った。
遺体は樫野崎に埋葬され、明治二十四年二月、埋葬地に「土国(トルコは漢字で土耳古と書く)軍艦遭難之碑」が建立され、三月七日、沖村長はここで追悼式を挙行している。こうした外国人遭難者に対する救護、遺体埋葬、遺品回収そして慰霊行事という日本人の仁慈に満ちた行為を後に知ったトルコ国民はみな泣いて感謝したのである。明治二十六年、この大島村民の義挙に対してトルコ政府は深甚なる謝意を表し、大島村に三千円(現在の価値では約六千万円)を贈った。村議会はこの用途を協議、村の基本財産とした。
九月二十一日、生存者は船で神戸に送られ、そこで負傷者の治療を続け、トルコヘの送還を待つことになった。負傷者は神戸で皇室から派遣された侍医、日本赤十字社医師による手厚い治療を受けた。重傷者が十三人、軽傷者が三十六人、残りが無傷であった。この治療には五人の看護婦がついた。
明治天皇はエルトウールル号の遭難にことのほか心を痛められ、生存者を深くいたわられた。皇后陛下は全員にフランネルの病床衣類を贈られた。その厚い御心に一人として泣かぬ者はなかった。小松宮彰仁親王も全員に菓子を贈られた。その他いろいろな方面から見舞の品が寄せられた。