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日本トルコ友好の懸橋(二)

 岡田幹彦先生のご好意により、ご著書「親日はかくして生まれた」をこのHPで公開いたします。

 岡田先生もHP管理者も金銭的な利益は求めていませんが、他情報媒体への転載・転記はご遠慮ください。

 

 なお、この「日本トルコ友情の懸橋(二)」は、後日「スマホで読む『歴史講座』」第3話として掲載します。

※読みやすいように、文脈毎に改行しています。(岡田先生すみません)


生存者の送還―― トルコ官民の大歓迎

 日本政府は生存者を軍艦二隻(比叡・金剛)をもってトルコに送還した。同年十二月二十七日、スエズ運河を通過してポートサイド港に到着、この地で生存者全員を引渡した。生存者は日本の水兵に抱きつき頬をすり寄せて別れを惜しんだ。こうして生存者引渡しが無事終了したあと明治二十四年一月二日、両艦はダーダネルス海峡を通過し、コンスタンチノープルに入港した。

 田中綱常(つなつね)大佐始め日本海軍将兵はトルコ官民の大歓迎を受けた。田中は到着当日、 一刻も早く明治天皇の結構な贈り物を受けたいとの皇帝の懇望(こんもう)により即刻、大花瓶、金製太刀(たち)などの贈物を渡した。

 

 一月五日、両艦長と士官は馬車に分乗して宮殿に向った。到着すると首相、外相ら高官が出迎えた。田中はアブデュルハミト二世に拝謁、明治天皇の親書を捧呈(ほうてい)した。皇帝は厚く生存者送還の礼をのべた。夕方からは皇帝臨席の盛大な歓迎宴が催され、文武の大官が出席した。以後四十日間、田中らは各所で熱烈な歓迎攻めにあった。その間、海軍兵学校、海軍造船所等を見学した。また皇帝の要望で剣道、柔道、相撲を披露した。

 二月七日、最後の歓待を受け、皇帝に拝謁、陪食(ばいしょく)のあと、明治天皇への親書を受領した。その際、皇帝は様々な貴重品を明治天皇に贈呈した。

 二月十日、コンスタンチノープルを出港する時、海岸に群集したトルコ人はハンカチを振り声をはりあげて別れを惜しんだ。比叡、金剛の乗組員たちも日に涙をたたえて別れを告げた。

 両艦は五月十日、品川に到着した。田中大佐は明治天皇に送還の一部始終について奏上した。また天皇は比叡に同乗してやってきたトルコ特使、侍従武官メーメッド・ムラーベ大尉を引見、勅語を賜った。

 

 エルトゥールル号の遭難という不幸な事件が、アジアの両端に位置する日本トルコ両国の間に深い親睦と友好の懸橋を結ばせたのである。この百二十数年前の佳話がこれまでわが国でほとんど知られなかったのは、宝物を見捨てるようなもったいないことである。トルコ国民に極東のサムライの国、義侠(ぎきょう)の民という強烈な印象を刻みつけたのが、エルトゥールル号遭難事件であった。

 

国民の同情と義捐金

 エルトゥールル号の遭難が新聞に報じられるや、多くの国民の同情が湧き上った。東京日日新聞は「同情相愍(あわれ)む」と題してこう論じた。

 「全権使節水師(すいし)副提督オスマン侯を初め艦長士官水夫五百八十余名が溺死して海底の藻屑(もくず)となれり。鳴呼(ああ)故郷を去る万里、来東(らいとう)外客(がいきゃく)(やから)を故山に遺し身を波濤に(ゆだね)ぬ。(およ)そ人この悲報を聞きて誰か為に涙濳然(さんぜん)たらざるものあらんや。政府もこれを見殺しにするはずはないだろうが、我々国民も義金を募って遭難者の救護に当たるべし」

 こうして同新聞始め各新聞等が大々的な義捐金(ぎえんきん)募集活動を開始した。募金は九月末から十月上旬迄の短期間だったが、人々は進んで協力した。最も多くの義捐金を集めたのは時事新報で四千二百余円(約八千万円)である。その中には「日本帝国海軍高等官及婦人」の名で千五百円もの寄付があった。東京日日新聞が四百三十円、大阪朝日新聞が百五十四円、毎日新聞が百二十八円、神戸又新日報が五十三円である。いかに人々の同情が深かったかがわかる。これらの義捐金は直ちにトルコに送られた。

 

山田寅次郎

 義捐金募集は新聞社だけではなく、民間の団体や個人においても行われた。その中で殊に大きな募金活動を行ったのが山田寅次郎(とらじろう)という二十四歳の若者である。山田はやがて多額の義捐金を携えて自らトルコに行くことになる。この山田こそ後に「民間大使」として両国間の友好親善に最大の貢献をした人物である。

 

 山田は慶応二年(一八六六)、上野(こうずけ)(群馬県)の沼田藩士の家に生まれた。藩主は土岐(とき)氏、三万五千石の徳川譜代(ふだい)で当時の藩主土岐(とき)頼之(よりゆき)は桑名藩主松平定永の六男である。寛政の改革を行った松平定信の孫であり、兄は徳川慶喜のもとで老中首座をつとめた板倉勝重である。頼之は幕府の若年寄にもなった。

 寅次郎の父は中村莞爾(かんじ)、家老職をつとめる家柄であった。しかし譜代大名であり桑名藩が官軍に抗したこともあり、維新前後、沼田藩は苦難を味わう。中村一家は維新後上京し、寅次郎は小学校を経て、漢学、英語、ドイツ語、フランス語等を学んだ。語学をものにして海外で仕事をしたいという希望をすでに十代の時に抱いていたのである。十六歳の時、茶道宗徧(そうへん)流第七世山田宗寿(そうじゅ)の養子になった。茶道師匠としての働きは後年になってからである。

 熱心に外国語を修得した寅次郎はすぐれた人格、才能をもち生涯武士の精神を抱き続けた。寅次郎は二十代はじめより出版、著述に携わった。明治二十一年、二十二歳のとき雑誌を発行、翌年、自著を出している。その頃、政治活動にも関わった。条約改正問題が最重要の政治課題であった時である。寅次郎は鳥尾小弥太(こやた)(元長州藩士、陸軍中将)の率いる保守派の中正社の社員になり、当時世を覆った欧米崇拝の風潮、欧化主義に反対する運動に加わった。毅然たる武士の魂をもつ寅次郎は烈々たる尊皇愛国の士であった。寅次郎が交際した人物は他に新聞『日本』を創刊した(くが)渇南(かつなん)幸田(こうだ)露伴(ろはん)、尾崎紅葉、福本日南(にちなん)饗庭(あえば)篁村(こうそん)などの文人がいる。

 

義捐金をトルコに持参

 エルトゥールル号の遭難に深く同情した寅次郎は既に交流のあった新聞関係者のつてを頼り新聞社の協力を得て、各地で演説会や演芸会を催して募金を行った。「土国(とこく)遭難者弔慰(ちょうい)金募集大演説会」「土国軍艦遭難遺族義捐大演会」と銘打って開催したが、どこでも多くの人々が来場して募金に協力を惜しまなかった。募金活動は一年以上続いたが、義捐金は総額五千円(約一億円)に上った。

 寅次郎はその金を携えて時の外相青木周蔵を訪ね送金方法を尋ねたところ、青木は山田の行為を称えて「これは君の義心に()でしものなれば君自ら携えトルコに赴いたらどうか」と強く勧めた。青木外相は海軍が所用でフランスに行く為に雇ったイギリス船に便乗する手配をしてくれた。

 

 明治二十五年一月三日、寅次郎は横浜港を出発した。時に二十六歳。以後二十年以上にわたるトルコでの生活が始まるのである。三月七日、英船パサン号はエジプトのポートサイドに着きここでトルコ行の船便を待ち、四月四日、イスタンブールに到着した。翌日、寅次郎はトルコ外務省に出向き、義捐金を無事手渡した。日本の一青年の行為はトルコ政府を驚嘆させ、それはすぐさま皇帝に伝えられた。

 

皇帝の歓待と寅次郎への信頼

 数日後、寅次郎はトルコ皇帝アブデュルハミト二世に拝謁した。皇帝は一年以上も募金活動を行い遥々トルコまで多額の義捐金を持ってきてくれた寅次郎の義侠心に心から深い謝意を表明した。寅次郎はこのとき中村家伝来の鎧兜(よろいかぶと)陣太刀(じんだち)奉呈(ほうてい)した。皇帝はこの贈り物を喜び、寅次郎にメジディエ四等勲章を授けた。この時皇帝は寅次郎にこう要請した。

 「トルコは日本との修好及び通商を年来希望しつつあるが、それは第一に双方がお互いの言葉を理解する必要がある。よってしばらく滞在して当国の陸海軍士官若干名に日本語を教え、また貴下には教師をつけてトルコ語を教えたい」

 意外な皇帝の言葉であった。皇帝は一見して寅次郎の表情、言葉、態度からにじみ出る凛然(りんぜん)たる日本武士の風格に魅了されたのである。無位無官の年若の一民間人にすぎなかった寅次郎であつたが、こうして破格の待遇を受けるのである。

 心ひそかにこのたびのトルコ行きにより両国の交通を開こうと思った寅次郎にとり、皇帝直々(じきじき)のこの要請は願ってもないことであった。こうして寅次郎は陸軍士官学校に一室を与えられ、陸軍士官六人、海軍士官一人に日本語を教えることになった。英語などを修得していたことがこのとき役立つのである。また同時に寅次郎はトルコ商品陳列館の日本における代理人も委嘱され、「将来日土両国間の貿易に従事してほしい」と重ねて皇帝の要請を受けたのである。

 

 トルコ皇帝はかねて小松宮(こまつのみや)彰仁(あきひと)親王や黒田清隆(第二代内閣総理大臣)らのトルコ訪間により日本に浅からぬ関心を抱いていた。元来遊牧民であるトルコ民族は東アジアの高原地帯から西進しやがてアナトリア高原に定住したが、人種的には同じアジア民族であったことも親近感を抱く理由である。トルコは人種の坩堝(るつぼ)といわれ、トルコ人、ギリシャ人、アルメニア人、ペルシャ人、アラブ人等多くの人種が、長年月間に混血に混血を重ねた結果、西洋人ぽい人が多く今日、トルコ人本来の顔立ちはほとんど失われている。トルコ人に言わすと本来の顔立ちは日本人のような顔貌だそうだ。トルコ人の宗教はイスラム教だが、欧米のキリスト教国には長年抑圧されてきたから、キリスト教国の品物を買うより日本の品物を買った方がよいと考えるようになっていた。

 そのようなときエルトゥールル号が遭難したが、日本は生存者を厚遇し軍艦をもって送り還してくれた。皇帝はじめ国民が日本と日本人に深い親愛と尊敬の念を急速に抱き始めた。日本人が義侠心に富むとともに贈り物に象徴されるように工芸品が非常に発達し、かつ東アジアにおいて益々発展を遂げつゝあることを知って日本との修好、通商を強く願望したのであった。

 寅次郎は翌年、皇帝からトプカプ宮殿の帝室博物館に収蔵されている多くの東洋美術工芸品を分類し目録を作成するよう依頼された。美術、工芸の造詣(ぞうけい)も深かった寅次郎はこの後数年間、日本語の授業とともにこの仕事に尽力した。こうして寅次郎はトルコ皇帝の厚い信頼を受け期せずして両国の友好、親善の懸橋となる生涯を送ることになる。

 

「民間大使」として大活躍

 以後、寅次郎は大正三年(一九一四)まで一時の帰国を除いて二十年以上にわたりトルコに滞在した。その間、両国間の通商、貿易を推進するため種々尽力した。また皇帝よりわが国の古い絵や鳥類の収集を依頼され、 一時帰国してこれにこたえている。寅次郎の最も大きな功績の一つは、両国の正式な外交関係樹立の為努力したことである。ウムット・アルクは『トルコと日本― 特別なパートナーシップの一〇〇年』においてこうのべている。

 「この間、両国の外交関係の正式樹立を支持する人々は両国の友好の進展に努めた。なかでも日本側では、第一に山田寅次郎の名をあげなければならない。山田は博愛主義の人でエルトゥールル号乗組員の遭難義捐金を持ってトルコに渡り、その後長期間イスタンブールに滞在し、また日本からトルコ皇帝アブデュルハミト二世への贈物を運んだ人物である。生涯、親トルコ家として日土友好に尽力した山田は後に茶道界の指導者としても知られる茶道宗徧流八世家元山田宗有(そうゆう)である。山田は宮廷において皇帝と側近の高官たちに茶の湯の点前(てまえ)を披露したが、日本の茶道が海外に紹介されたのはこれをもって嚆矢(こうし)とする。彼の家族や子、孫たちもトルコの親しい友であり、我々は彼に深く感謝している」

 

 日本とトルコの正式な外交関係は、トルコ共和国が成立(大正十二年・一九二三年)した翌年である。

 

 また寅次郎はトルコを訪れる日本人の面倒を見た。通訳、案内その他寅次郎の世話にならぬ日本人は一人もいなかった。東伏見宮(ひがしふしみのみや)依仁(よりひと)親王、乃木(のぎ)希典(まれすけ)近衛(このえ)篤麿(あつまろ)、寺内正毅(まさたけ)、福島安正、徳富(とくとみ)蘇峰(そほう)ら有名無名を問わず、寅次郎は誠意を尽した。二十余年間トルコにあってほとんど一人、八面六臂(はちめんろっぴ)の活躍をしたのであった。