岡田幹彦先生のご好意により、ご著書「親日はかくして生まれた」をこのHPで公開いたします。
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なお、この「日本トルコ友情の懸橋(三)」は、後日「スマホで読む『歴史講座』」第3話として掲載します。
※読みやすいように、文脈毎に改行しています。(岡田先生すみません)
日露戦争と寅次郎
日露戦争が始まった時、問題となったのは、ロシアが黒海艦隊を極東に派遣するかいなかであつた。そこで駐オーストリア公使牧野伸顕が寅次郎に黒海艦隊の動向を秘密裡に監視してほしいと要請した。欣諾した寅次郎はボスポラス海峡の入口にある一軒家を借り、連日、望遠鏡で監視をつとめた。またイスタンブールの高台にある六十メートルのガラタ塔でトルコ人二十人を雇い交代で昼夜監視させた。
明治三十七年七月四日、寅次郎は怪しい船を発見した。ロシア義勇艦隊の三隻が貨物船を装い食料、軍需品を積み出航せんとしているところであった。寅次郎は直ちに牧野に報告、牧野は外務省に通報した。偽装した軍艦中二隻はやがてアフリカ東部の沖合でバルチック艦隊に合流した。
日露戦争後、小村寿太郎外相は寅次郎のこのときの働きを含めそれまで長年日土友好に尽した功績を表彰して、銀七宝花瓶一組を感謝状とともに贈っている。トルコ人が日露戦争をどう見たかにつき寅次郎はこうのべている。
「日露戦争起るや土国上下の我に対する情誼は実に誠欸(せいかん)敦厚(とんこう)(誠の心が厚いこと)を極め、皇帝陛下は直ちに陸軍少将ペルテップパシャを派して我に従軍せしめ(観戦武官として派遣すること)、日夕その報道を奏しめ、国民は吾が赤十字社および新聞社等に金円を寄托(寄付すること)、戦役負傷者等を慰問せる者陸続せり。予(私)は日清戦争、北清事変、日露戦争の当時を通じて土国に在りしが、新聞紙上その他において我が国の武勇、義侠両つながら他邦に卓絶せるものあるを嘆賞し、あわせてオスマン帝国の祖先も亦同じくアジア人種なるを談り、以て日本人を敬慕すること殊に深く、上帝室より下一般人民に至るまで吾人を歓待すること他に比すべきなし。予はまた召されて皇帝陛下に謁見の栄を得たること前後三回、居常悠々身の異域万里の外に在るを忘れ、ついに土国を以て第二の故郷と思惟するに至れるもの決して偶然にあらざるなり」
長年たびたびロシアと戦い敗北を続けてきたトルコ人は日露戦争の勝利に感嘆、驚喜した。このとき生まれた男子に「トーゴー」「ノギ」と名づけることが流行し、イスタンブールの一街路が「トーゴー通り」と名付けられたりした。皇帝アブデュルハミト二世は、「我々は日本人の成功を衷心から喜ばなければならない。ロシア人に対する日本人の勝利はすなわち我々の勝利である」とのべた。また一トルコ人は、「日本の生死は東洋全体の生死であります。日本の進歩と発展とは全東洋世界の願望であり、今日東洋人はみな己れの生存を日本人の生存と一体のものと考えております」とのべている。
日露戦争の勝利がいかに世界史的意義を有するか、欧米列強の抑圧を受けてきた他国他民族の人々がかえって正確に捉えているのである。
日土貿易協会の設立
日本とトルコは大正十三年(一九二四)、国交を樹立し、翌年、東京とイスタンブールに大使館が開設された。同年、寅次郎の尽力により日土貿易協会が設立され、寅次郎は理事長に就任した。日本からは繊維品、茶、工芸品等を輸出し、トルコからは綿花、羊毛、羊皮、山塩等を輸入することになった。その翌年、イスタンブールには日本商品館が開設されたが、日土貿易協会がその運営に当たった。また大正十五年(一九二六)、東京に日土協会(日本トルコ協会の前身)が設立されたが、寅次郎はこれにも尽力した。日土協会は高松宮宣仁親王を総裁に戴き春秋二期、会合を催したが寅次郎は通訳として活躍した。
寅次郎は昭和六年(一九三一)、同会理事長として十七年ぶりにトルコを訪問した。イスタンブールでは大勢の旧友、知人らが歓迎してくれ懐旧の情にふけった。寅次郎の来訪は新聞記事にもなり、連日人々が宿舎に押し寄せた。その一人がエルトゥールル号で遭難した使節団長オスマン・パシャの令嬢である。彼女は「あなたが当時義捐金を持つてわが国に来られ、十数年滞在されたと聞いています。どうかその当時の父一行の詳しい遭難談を話して下さい」と望んだ。そこで寅次郎が一時間以上も語ると彼女は感泣して、「ぜひ私の家に来てほしい。亡父が愛用していた琥珀パイプを記念としてさし上げたい」と言った。以後、寅次郎は二、三度彼女の家を訪問している。
そのあと寅次郎はケマル・パシャ大統領よリトルコ共和国記念祭の招待をうけ、首都アンカラに出向いた。大統領は親しく寅次郎にこう語った。
「私はあなたと面識があります。昔、イスタンブールの士官学校であなたが日本語を教えていたころ、私も少壮将校の一人としてあなたを見知っていました」
大統領はなおこの上にも日土貿易に尽力してほしいとのべた。トルコ共和国建国の父と仰がれるケマル・パシャは終生大統領の職にあり、トルコの近代化と発展に最大の働きをした人物である。彼はトルコ国民議会から「アタチュルク」(父なるトルコ人)という尊称を贈られ、以後ケマル・アタチュルクとよばれ、今もトルコ人が最も尊敬してやまぬ人物である。彼は自室に明治天皇のご肖像を掲げ日本を見習いトルコの改革に一生を捧げた親国家でもあった。
追悼祭
昭和三年八月五日、大島村樫野崎で日土貿易協会の主催によってエルトゥールル号遭難者の追悼祭が盛大に行われた。資金の募集、祭典の準備等万端において最も尽力したのは寅次郎である。初代駐日トルコ代理大使フアット・ベイも喜んで参列した。
追悼式にはほかに、商工省代表、和歌山県知事、大阪府知事代理、大島村長、稲畑勝太郎日土貿易協会会長(大阪商工会議所会頭)らが参列した。祭主は稲畑会長、寅次郎は副祭主をつとめた。
祭典は祭主が神前に祭文を誦じ殉難将兵の英霊を慰め、次いでフアット・ベイ代理大使がトルコ語で弔詞を捧げた。寅次郎はその訳文を朗読した。次いで日本政府の外相、海相、商工相、逓信相らの弔電が披露された。その後、和歌山県知事、大阪府知事、大島村長、そして寅次郎らの弔詞が続いた。最後に大島小学校児童代表により玉串が捧げられた。この日は雨天の為、やむなく祭典は大島小学校で挙行されたが、翌日、天気は回復、現地樫野崎において厳粛な墓前祭が行われた。この式典を記念して樫野崎に慰霊碑を建立することとし、十年毎(現在は五年毎)に慰霊祭を行うことが決定された。翌年四月五日、慰霊碑が完成した。
トルコ政府の慰霊碑建立
昭和四年六月三日、昭和天皇が樫野崎に行幸され、エルトゥールル号遭難者の墳墓を訪れ碑前において挙手敬礼された。これを伝えきいて感激したのがケマル・アタチュルク大統領である。彼は樫野崎に新たな慰霊碑を建立せんと決意した。
昭和十一年四月、まず各所の墓地に埋葬されていた人々の遺骨を一ヶ所にまとめこれを新たに造る慰霊碑の真下に埋める棺に安置した。墓地の場所は旧墓地を拡張したもので用地は大島村が提供した。新慰霊碑は大理石造りで一二・七五メートル、トルコ式の高塔で、碑の正面の題字は「土国軍艦遭難之碑」である。墓地改修及び新慰霊碑建設の費用は用地(七四六平方メートル)を除きトルコ政府が出した。完成は昭和十二年六月三日、昭和天皇が行幸された吉日である。この日、除幕式及びエルトゥールル号遭難五十周年追悼祭(二年後に行われる予定だったが繰り上げられた)が盛大に行われた。参集者は五千名に及んだ。
その翌年、ケマル・アタチュルク大統領が急死、第二次大戦ではトルコが連合国側についた為、両国の親善関係は一時中断された。しかし大島村では遭難以来、五年ごとに犠牲者の慰霊祭を休むことなく継続し、地元住民、樫野小学校小学生たちが戦前から墓地の清掃作業を続け、戦争中も欠かさなかった。駐日大使や大使館付武官が大島に来た時は必ず樫野小学校を訪れお礼の言葉を述べている。昭和五十三年、樫野小学校創立百周年記念式典の時、ジェラル・エイジオウル駐日大使は次の言葉を寄せた。
「本日、樫野小学校創立百周年記念の式典が挙行されるにあたり、お祝いの言葉を送ります。この事はトルコ大使の私にとりましても無上の喜びとするところであります。衷心よりお祝い申し上げます。皆様もよくご承知の通り樫野小学校には特にトルコ国政府及びトルコ国民にとりまして、明治二十三年、オスマン帝国の親善使節の乗艦エルトゥールル号がその帰途、当地の樫野崎沖合に遭難して以来、八十八年間本当に長い間お世話になりました。
移り変りの激しい世の中でありますが、樫野小学校とトルコ国との国い絆は何のゆるぎもなく永遠に変ることなく子々孫々に受け継がれ、日土親善の礎となることでありましょう。この佳き日に当たり、樫野小学校が次代を担う世代の教育に一層励まれ、二百周年への到着点を目指し出発点とならんことを衷心より祈るものであります」
樫野小学校は現在統合されて串本町立大島小学校となっているが、今でも毎年十一月、全校生徒で墓地の清掃作業に当っている。なお昭和四十九年には慰霊碑の近くにトルコ記念館が建てられた。
寅次郎は日土貿易協会理事長のほか実業家として製紙会社を経営、かつ宗徧流八世山田宗有としても活躍、昭和三十二年、九十歳の天寿を全うして亡くなった。最晩年の昭和二十六年、寅次郎はこう人生を回想している。
「明治時代の青年は東洋の君子国としての誇りを持ち、諸外国に侮りを受けることのないよう張り切っていました。それがトルコ軍艦エルトゥールル号の義捐金ともなったのでした。そしてその為私は思わぬ幸運に恵まれ、まるで龍宮に行った浦島太郎のようにトルコで優遇されました。まるで夢のようです」