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日本トルコ友好の懸橋(四)完

 岡田幹彦先生のご好意により、ご著書「親日はかくして生まれた」をこのHPで公開いたします。

 岡田先生もHP管理者も金銭的な利益は求めていませんが、他情報媒体への転載・転記はご遠慮ください。

 

 なお、この「日本トルコ友情の懸橋(四)」は、後日「スマホで読む『歴史講座』」第3話として掲載します。

※読みやすいように、文脈毎に改行しています。(岡田先生すみません)


オザル大統領の英断と義心

 「(なさけ)は人の為ならず」という。トルコ人にほどこした恩愛はめぐりめぐって九十五年後、日本人に返されたのである。

 

 イラン・イラク戦争が行われていた昭和六十年(一九八五)三月十七日、イラク政府は突如「三月十九日午後八時三十分以降、イラン上空を航空禁止区域とし、上空を飛ぶ全ての航空機を無差別に攻撃する」との声明を出した。戦闘が激化し連日テヘラン市内に爆弾が投下された為、イランの日本大使館は前日十六日、邦人に出国勧告を出していた。

 在イラン日本人は出国を急いだが、当時日本の航空会社はイランに乗り入れていなかった(イラン革命以後の政情不安のため)。そこで外国の航空機に頼るしかなかったが、どこの国も自国民の脱出を優先するから、邦人の大半が座席を確保できなかったのである。テヘランに取り残された在留邦人は三百三十八人もいた。各国も自国民の脱出で手が一杯であった。

 

 野村豊駐イラン大使はすぐ外務省に救援機派遣を要請したものの、外務省は不決断で結局出さなかった。焦慮した大使は親交のある駐イラン・トルコ大使イスメット・ビルセルを訪ね、救援機一機を出してくれるよう懇請した。大使自身いかに自国民を救出するか悩んでいたところにこの要請だから困惑したに相違ないが、大使はすぐさま「日本人を救う為、大至急救援機を飛ばせないか」と本国政府に打電してくれた。

 一方、イスタンブールの伊藤忠商事支店長森永(たかし)氏は本社からトルコのトゥルグット・オザル首相に依頼してトルコ航空に救援機を出してもらうよう交渉せよとの指示を受けた。氏はオザル首相と十年来の親交があつたからである。首相はいつも氏を「親友モリナーガさん」と呼んでいた。しかしいかに親友とはいえ一国の首相にこのようなことを頼めるのかと思い悩んだ。だが一刻も猶予は許されない。森永氏は直接電話し単刀直入こう頼んだ。

 「トゥルグット・ベイ(ベイは〇〇さん)。トルコ航空に指示を出して、テヘランにいる日本人を救助して下さい。これはイランにいる日本人が困っている話なので、イランと日本の間の問題であり、本来トルコには何の関係もない話です。イランの航空機あるいは日本の航空機が救援すべきなのです。しかしイランの航空機は戦闘中なので便数に余裕がありません。日本の航空機は救援機を出しても遠すぎて警告期限に間に合いません。今、日本にとって頼れる国はトルコしかないのです」

 しばらく沈黙が続いた。やがてオザル首相は、「わかった。心配するな、モリナーガさん。後で連絡する」といい、数時間後、「万端、準備した。心配するな、親友モリナーガさん」と電話してきた。

ビルセル大使から野村大使に「明日、トルコ航空が日本人のために特別機を飛ばす」との電話が入ったのは撃墜予告の二十五時間前であった。オザル首相はこのとき森永氏に「我々はあなた方日本人に恩返しをしなければいけません」と語った。

 

両国親善の固い絆

 トルコからの救援機二機は三月十九日の午後到着した。 一機に日本人百九十八名、二機目に十七人(残りはトルコ人)を乗せた。二番機が飛び立ったのは撃墜予告一時間前であった。こうしてイラン在留邦人は全員無事脱出できた(残り百余人はトルコ機以外の外国機で既に出国)。

 当時テヘランには六百人をこえるトルコ人がいた。そのうち救援機に乗ることができたのは百数十人だけで、残りの五百人近くはやむなく陸路車で脱出したのである。テヘランからイスタンブールまで車をとばして三日もかかる。つまリトルコ政府は自国民よりも日本人を優先したのである。森永氏はこうのべる。

 「こんなこと、日本だったらできるだろうか。こんなこと、日本だったら許されるだろうか」

オザル首相は外国人を優遇し自国民を粗末に扱ったという非難がまきおこるのは必至と氏は憂慮した。トルコ人はみな熱烈な愛国者であつた。しかしオザル首相への非難、批判は一切なかった。トルコでは教科書にもエルトゥールル号事件について書かれておりほとんどの国民が親日感情を抱いていたから、誰一人としてオザル首相の措置を問題にしなかったのである。

 

 この時、日本政府が救援機を出さなかった一つの理由が、航空機と乗務員の安全の保障がなかったからというものであった。森永氏は後でトルコ航空総裁になぜ救援機を出してくれたかを尋ねると、「日本人の安全の保障がなかったから、 一刻も早く日本人を救出するために出した」と答えた。

 トルコ政府の決断によリトルコ航空が救援機を出すに当って飛行士と客室乗務員を決める時、トルコ航空のオラル総裁はとくに熟練の機長を召集、大きな危険を伴う日本人救出活動に志願してくれる機長はいるかと問うと、機長達は一人残らず志願した。続いて客室サービス室長が客室乗務員候補者数名に対して、「これはとてつもなく危険な業務です。命を懸けてテヘランまで飛んでもいいという人にだけ正式な飛行命令を出します。どうですか」と問うと全員が志望した。すると隣室からオラル総裁が現われて拍手してこうのべた。

 「この瞬間ほど私はトルコ国民であることに誇りを持ったことはない。我々の手で日本人を救出しよう。百年前のエルトゥールル号の恩を今こそ返すのだ」

涙がこぼれてくるトルコ人の友愛である。本来日本政府がやるべきことをトルコ政府とトルコ航空が代ってしてくれたのである。オザル首相の英断、トルコ航空の義侠的行為に対して日本人はいかに感謝してもし過ぎではない。

 

 トルコの救援機が飛び立った時、日本人は一瞬悦んだがしかし安心は出来なかつた。撃墜予告時刻が迫っていたからである。やがて飛行機がイラン国境を超えた時、機長は英語で「日本の皆さん、ようこそトルコヘ」と告げた。 一斉に歓声が上がり割れんばかりの拍手が鳴り響いた。全員涙で顔をぐしゃぐしゃにした。なお、この時日本人は知らなかったが、トルコ政府は救援機二機にそれぞれ二機のトルコ空軍戦闘機を護衛としてつけてくれたのである。トルコ政府は空軍戦闘機を出動させて日本人を守ってくれたのだ。日本政府はこの時自国民を救出する為に飛行機も自衛隊も出さなかった。日本は正常な国家であろうか。

 

 トルコ政府の日本人救出の物語には後日談がある。平成二十二年(二〇一〇)、「トルコにおける日本年」の記念行事が国内三十二都市で開催されたが、イスタンブールで「日本・トルコ友情コンサート」が行われた際、二十五年前に救出された二人の日本人が招待された。二人は救ってくれた機長・飛行士と客室乗務員たちにお礼する為にやってきたのである。救出された時はあわただしくそれが出来なかったのだ。イスタンブールの日本領事館公邸において二人はこのとき八十四歳のオルハン・スヨルジェ機長らに涙ながらに御礼と感謝の言葉をのべた。その際、客室乗務員だったミュゲ・チエレヒという女性がほほえみつつこう語った。「実はあの時に私は妊娠していたんです。あの時〝日本人を助けるために戦下のテヘランに行ってくれるか″と上司に聞かれたんです。私は日本人を助けることができる機会だと思いました。私はどうしても日本人を助けたかったんです。そして大昔の恩を返したかったんです。日本人を助けにいけることを誇りに思いました。もし妊娠していることが知れたら、その尊い任務に私はつくことができません。仮にこの任務のことを夫に伝えても反対されて参加することができなかったでしょう。そこで私は妊娠の事実を会社に告げずに、そして夫にも任務のことを言わず黙って参加したのです」

 そう言ってかたわらの若い女性をひきよせて、「その時お腹にいたのが、この娘さんなんですよ」と告げた。

 二人は全身を揺すぶられ涙が溢れ出た。「ありがとう、本当にありがとうございます」そういうのがやっとであつた。恩、義理、人情は日本人の専売特許ではない。トルコ人は日本人に劣らぬ恩を知る民族であり、義理と人情をかくも豊かにもつ国民であるのだ。

 

 平成十一年(一九九九)、トルコ北西部に大地震がおきた。死者一万七千余人というトルコにおける二十世紀最大の天災であった。このとき義捐金募集に尽力したのがトルコ航空機で救出された商社、銀行員達であった。森永氏も世界中の同社員に呼びかけた。またこの時ばかりは日本政府の対応は迅速で緊急物資・無償援助百万ドルを各国に先駆けて提供した。また国際緊急援助隊を地震発生当日派遣した。この素早い対応と支援にトルコ人は感激した。

 

美しい心でつながる日本とトルコ

 平成二十三年、東日本大震災の時、トルコは救助隊を派遣、最も長く被災地に残り救助活動に尽力してくれた。同年十月、トルコ東部で大地震が起きたが、日本は支援の手を差し伸べ、現地で救援活動に当った宮崎(あつし)さんが殉職した。日本とトルコはかくも利害打算のない真の友好と親善の絆を長年保ってきたのである。当時の駐日トルコ大使セルダル・クルチ氏はこうのべている。

 「日本には武士道の精神があり、弱き者を助けようとする気高い心がありますが、トルコ国民が育んできた文化の中にも武士道に似通った側面があります。トルコ人も困難に直面した友に助けの手を差し伸べることは自らの義務だと考えます。

 串本に行って私たちの感謝を伝えようとするたびに、日本の皆さんは『大したことはしてないのに』とまるで恥ずかしがるような表情が浮かびます。それは『助けを求めている人に手を差し伸べるのは当り前で、人間なら誰でもやるべきをやっただけです』という表情だと感じます。同様に私もイラン・イラク戦争での日本人救出について日本の方々から感謝されることがありますが、やはり『大したことはしていないのに』という気持になります。

 エルトゥールル号事件やテヘランからの救助をより多くの方々に伝えるべきだといっても、そこで強調されるべきことは『助けてあげた』『感謝しましょう』ということではなく、『かくも素晴らしい人道的な友情関係が国際社会においてありうる』ということでないでしょうか。その『人間らしい心』そして『友情』をこそ皆さんに知ってもらいたい。この精神を私たちが失なわぬことが、日本とトルコにとってそして世界全体にとつて極めて重要だと思うのです。

 残念ながら世界では今も武力衝突や戦争が絶えません。その中で時間も国境も越えた友情で結ばれてきた日本とトルコの関係は非常に稀有といえるかもしれません。トルコ国民と日本国民は地理的な近隣関係でつながっているのではなく、お互いの『美しい心』でつながっているのだと思います。トルコ人と日本人は『心の隣人』なのです。

 目上の人や高齢者への敬意、そして子供を大切にし家族を重んじる心も日本人とトルコ人は非常に似ています。さらに日本人が神社やお寺を敬う精神性もトルコ国民の精神性に非常に共通すると思います。

 アジアの東西両端に位置し、精神的な深さ、豊かさ、強さを共に持ち合わせている日本とトルコの友情を今後一層深めていくことが、ひいてはアジァ全体の平和と安定にも最も大きな貢献となるでしょう」

 

 エルトゥールル号遭難という不幸な事件をきっかけにこの百二十数年間、日本とトルコは国際間にほとんど例を見ないかくも厚い善意と親愛と尊敬の固い絆を結んできたのである。

 

〈初出・『明日への選択』平成二十二年十月号~十二月号/一部加筆・修正〉