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ポーランド孤児の救済(1)

ポーランド孤児の救済(1)

 

 ヨーロッパ随ーの親日国

 

 今日、世界の国々の大半の人々が親日感情を抱いていることは、多くの日本人の知るところとなった。それは有色人種の国家だけではなく、欧米白人国家においても変りはない。ヨーロツパ随一の親日国はポーランドである。ポーランド人がいかに日本人を親愛してやまないかにつき、『日本人になりたいヨーロッパ人』の著者片野優・須貝典子両氏はこうのべている。

 「ヨーロッパ 一の親日国ポーランド。いやポーランドは世界一の親日国かもしれない。

なにしろ地理的に日本と遠く離れていても、心の距離は『ロシアをはさんだ隣国』であり、『日いずる国』『桜の咲く国』と憧れ、『来世は日本人に生まれたい』『日本人になりたい』と願うポーランド人は結構な数にのぼる」

 

 ポーランド人はこれほどの熱い思いを日本人に抱いているが、日本人はほとんどポーランドを知らず関心は無きに等しい。日本人が知っているポーランド人は、ショパン、コペルニクス、キュリー夫人、ローマ法王ヨハネ。パウロニ世、ワレサぐらいである。いまポーランドには「寿司バー」が百軒以上もある。柔道・剣道・空手・合気道・居合道連盟及び相撲協会まである。そのほか将棋・囲碁・麻雀連盟もある。また日本語熱が高く、四つの国立大学と四つの私立大学に日本語学科がある。二〇〇六年のワルシャワ大学の日本語学科の倍率は、国内最高の三十倍を記録したそうである。この学科の学生は授業以外に毎日五・六時間も費し二〜三年で約二千の常用漢字を習得するほか、日本史・日本文学・和歌・俳句・歌舞伎・仏教等も学ぶという。著者いわく。「ひょっとすると最近の日本の大学生以上に漢字が書け、古来の日本文化に精通しているかもしれない」

 これが世界の新しい潮流である。今は英語よりも日本語が(しゅん)なのだ。日本文明が世界の中心的文明になろうとしている今世紀において、日本語熱は高まる一方である。

 

 日露戦争の衝撃

 

 ポーランド人の親日の理由は二つあるが、 一つは日露戦争である。日本がロシアを打ち破ったことがいかにポーランド人を驚嘆させ感激させ、彼らの愛国心を鼓舞したかはかりしれない。初代国連大使をつとめた外交官加瀬俊一(としかず)氏は、昭和三十年代ポーランドを自動車旅行し、ある教会に立ち寄った時のことをこうのべている。

 「年配の上品な神父が出てきて日本人だと言うと、〝ああいらっしゃい、日本の車があちこち走っていると聞いていました"そういってお茶を出してくれたんです。そうしたらかたわらに小さな男の子が来てそれで私は、君の名は何て言うのと聞くと、〝ノギ"というの。〝えっ、ノギ"すると神父さんが言うのです。〝ノギというのは乃木大将のノギですよ。ノギとかトーゴーとかこの辺はたくさんいましてね。ノギ集れ、トーゴー集れと言ったら、この教会からはみ出しますよ"トーゴーとはもちろん東郷平八郎にちなんでのことです。ポーランドではロシアの悪政に反抗して独立闘争に多くの血を流した歴史を持っているんです。そのロシアを打倒した英雄にちなんで名前をつけるわけです。日本人はね、日露戦争の日本海海戦がいつか知らないでしょう。しかしポーランドの少年たち少女たちは日本海海戦や奉天会戦がいつだったかよく知っているのですよ。皮肉ですね」

 

 日露戦争時、ポーランドはロシア・ドイツ・オーストリアにより国土を分割支配され、亡国の憂目をみてから既に百年を経ていた。ポーランドはことにロシアに最も迫害を受けてきたから、日本の勝利に驚喜し民族独立。国家回復の悲願をこめて、次代を担うべき子供らに「ノギ」「トーゴー」の名をつけたのである。ここで知るべきは日露戦争の果した世界的史意義である。日露戦争こそ近代世界史の一大分水嶺であった。日本の勝利が全有色民族及び被圧迫民族を強く覚醒させた。日本は彼らの希望と勇気の源泉となったのである。

 

 もう一つの理由は第一次大戦後、シベリアで苦難に陥ったポーランド孤児七百余人をわが国が救済したことである。この歴史は日本ではほとんど知られていないが、ポーランドでは全国民が感激、感涙した日本の素晴らしい人道的行為であった。以上の二つがポーランド人の親日を決定的にし、今日まで日本及び日本人に対して心底から熱い敬愛の念を抱き続けてきたのである。しかし多くの日本人はそのポーランドに無関心であった。それでよいのだろうか。これほど思ってくれるポーランド人に対して、我々もまたこの国についてよく理解するつとめがある。

 

 第一次〜三次分割・亡国の悲劇

 

 ポーランドほど苦難の歴史を経てきた国はそう多くない。ポーランドは北はバルト海に面し、西はドイツ、東はロシア、リトアニア、ベラルーシ、ウクライナ、南はチェコ、スロバキアに囲まれた平原の国で、面積は日本よりやや狭い三十二万平方キロ、人口約四千万、自国語たるポーランド語を有するカトリックの国で人々の信仰は極めて厚い。国民の人種的構成はポーランド人がほとんどだが、他にウクライナ人・ベラルーシ人・リトアニア人・ドイツ人等がいる。

 

 日本と日本人を敬愛しているポーランド人はどんな民族であろうか。数々の苦難を経てきたが、ポーランド人はおおらかで寛容、とても気のいい人が多く話好きである。ポーランド人の性格は「スラブの中のラテン系」ともいわれる。ポーランド人は西スラブ語族だが、アングロサクソン系やラテン系の人々とは異る柔らかで線の細い感じの人が多く、男は優しく女は美しい顔立ちの人が多いといわれている。カトリックの信仰の深いポーランド人が、「聖人」として尊敬するのがヨハネ・パウロニ世である。ポーランドから出た初めてのローマ法王であった。ポーランドがソ連の東縛から脱出する際、ポーランド国民を精神的に支える上にはかり知れない役割を果した人物である。 一言を以てするなら二度の亡国から再起し得たポーランドは「不屈と寛容の国」である。

 

 ポーランド人が国家を形成したのは、十世紀後半である。この国がキリスト教化したのは十二、三世紀である。ポーランドは有為(うい)転変(てんぺん)の波乱に満ちた歴史をたどり再度亡国の悲劇を味わうが、ポーランド社会が崩壊に陥らず統合を維持しえたのはカトリックが存在したからであった。ポーランドはヤギェウォ王朝(十四〜十六世紀)時代、勢力を伸ばし、当時の領土はフランスの二倍もある中欧の大国として発展した。クラクフ大学を拠点としたポーランド文化が開花し、ポーランド文学の黄金時代を迎えたのが十六世紀であった。

 

 ヨーロッパ有数の大国・強国として栄えた王国であったが、十八世紀に入り衰退し始め、 一七一七年、ピョートルによリロシアの保護国と化した。この時代、それまで後進国であったロシアとプロシアが台頭し、 一七七二年、ポーランドはロシア・プロシア・オーストリアにより国土の三分の一を奪われた(第一次ポーランド分割)。次いで一七九三年に第二次分割が行われ、 一七九五年、第三次分割により国土全てが三国に奪われ、ここにポーランド国家は消滅した。この時、コシチューシコが立上り祖国防衛の為に奮戦したが空しく失敗した。かくして以後一九一八年まで百二十三年間、ポーランド人は亡国の民として呻吟(しんぎん)した。しかしポーランド人はこの苦難に耐え自国の誇るべき伝統・文化の価値観とカトリックの信仰を堅持するのである。この間ポーランド人を慰め励ましたのはショパンの音楽であった。故郷ポーランドヘの慕情の表現であるショパンの数々の名曲が、ポーランド人を常に慰撫し鼓舞したのである。今もなおショパンは「神聖な国民的象徴」として国民から深く敬愛されている。

 

 福島安正の同情

 

 初めてポーランドの土を踏んだ日本人は、陸軍将校の福島安正少佐である。明治二十年代前半、ドイツ駐在武官時代しばしばポーランドに足を運び、ポーランド亡国の歴史を調べたが報告書の中でこうのべている。

 「ああ二百年前のポーランドは実に中央ヨーロッパの一大王国にして、その境域(きょういき)、北はバルト海より南は黒海に(つら)なり、その面積はフランス・スペイン(を合わせた広さ)に相匹敵していた。当時はプロシアいまだ王国でなく、ロシアまた一小国にすぎなかった。すなわちポーランドは欧州の雄強にして列国に屹立(きつりつ)し、その民は義にして勇、将士精鋭、天下みなその威力に威怖していた。しかしさすがの強国もまた栄枯盛衰の理にもれず、国勢盛大なる時において国家の秩序が次第にゆるみ、上は政権の争奪、下は選挙の紛争(岡田註・国王は世襲ではなく選挙で選ばれた)にふけり、国の運命を真剣にかえりみる者がなかった。ところがその間に北方にはロシア、西方にはプロシアが次第に台頭し来り、虎視眈々として機会をうかがっていたが、ついに一七七二年ロシアの女皇カザリン(エカテリーナニ世)を主唱とするロシア・プロシア・オーストリア三国の乗ずるところとなり、その豊沃なる平野の三分の一は三国に分割された。ポーランドの人士、いかにしてこの屈辱に甘んずることができようか。コシチューシコ等の義士(ぎし)、奮然立ちて独立の義兵を挙げ失地を回復し国運を挽回せんと努めたが果せず、幾多の志士はその愛国の熱血を故国の山野に流して空しく倒れ、第二回分割を経て三回にして全土が三国に奪われることになった。時に一七九五年であった」

 

福島は亡国の民となったポーランド人に無限の同情を注ぐとともに、祖国日本がポーランドの如き悲劇の運命を辿(たど)らないことを切に祈ったのである