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ポーランド孤児の救済(2)

ポーランド孤児の救済(2)

 

 再度の亡国ーー 第四次分割

 

 第一次世界大戦後の一九一八年、ポーランドは待望の独立を回復した。ポーランドを抑圧し続けたロシア・ドイツ・オーストリアの三帝国は崩壊した。国家再建の道は容易ではなかつた。百年以上も分断された各地域を統合し、国内の様々な勢力の対立を解消しなければならなかったが、このときも同国内のカトリック教会が大きな役割を果した。

 

 しかしながら大戦後の欧州情勢は共産国家ソ連とナチス・ドイツの出現により一層緊迫の度を加え、 一九三九年八月、ヒトラーとスターリンは突如独ソ不可侵条約を結び、秘密協定でポーランドの分割を取り決めた。翌月、両国軍は東西より侵攻、一気に全土を占領・併合した。第四次分割であり再度の亡国であった。自国の目的・利益の為には平然と他国を蹂躙(じゅうりん)、支配するのが世界の歴史の厳然たる事実であり、今日もまた同じである。他国に(よこしま)な野望を抱かせずその侵略を阻止しうる確固とした実力・軍事力、そして他国の威嚇侵略に対して厳然と立ち向いこれを打ち払う独立国民としての国を守り抜く精神の堅持が、何より重要なことを我々に教えているのがポーランド亡国の悲史である。

 

 カチンの森虐殺事件

 

 この時、ポーランド国民にさらに悲劇が襲った。ソ連軍との戦いで敗れたポーランド軍将兵二十五万人がソ連の捕虜になったが、その中の約二万二千人の将校をソ連は一九四〇年四月から五月にかけて全員虐殺したのである。何力所かに分けて殺したが、その一つがソ連の旧ポーランド国境近くのカチンの森である。ここでは約四千名の将校が後手(うしろで)に縛られたまま銃殺され、いくつもの大きな穴に幾層にも重ねて埋められた。

 

捕虜を虐待してはいけないし、無論罪なくして処刑してはならない。いかなる戦争犯罪も犯していないポーランド軍捕虜を虐殺したのがソ連である。これを命じたのはスターリン、それを決定した日は一九四〇年三月五日。ソ連共産党政治局員スターリン以下七名全員が捕虜の処刑(銃殺)を承認し署名している。

スターリンはなぜこの様な残虐無比の蛮行を行ったのか。それはソ連がこのあとポーランドを「衛星国(従属国)」として支配する為に、ポーランド軍の愛国心強固な将校達が邪魔だったからである。殺された中には予備役将校が数多くいたが、彼らは政治家、判事、検事、弁護士、技師、大学教授、教師、経営者等各界の指導者であった。ソ連にとりこれらの人々は、ソ連に屈従しない「階級の敵」として抹殺されたのである。それは一つの階級を絶対とし、他の階級を劣等視し差別し排除・抹殺する「階級浄化」という共産主義の根本的思想であり、それはまさに悪魔の所業そのものであった。ソ連はこの犯罪をナチス・ドイツになすりつけていたが、五十年後の一九九〇年、ゴルバチョフはソ連の国家犯罪であることを正式に認めた。なお米英はこの虐殺事件の真相を掴んでいたが、第二次大戦後も長らくソ連の虚偽の主張を支持し続けた。

 

 飢餓に泣くポーランド孤児

 

 ロシア・プロシア・オーストリア三国によるポーランド分割後、ポーランド人は祖国復の為に幾度も蜂起(ほうき)した(一八三〇〜三一年、一八四八年、一八六三〜六四年)。ことに一八六三〜六四年の蜂起は十八ヵ月間も続いた。しかしポーランドに駐留する十万のロシア軍はこれを鎮圧、多くのポーランド人を殺すかシベリア送りにした。捕虜として送られた人は約八万名もいた。ロシア革命時(一九一七年)、シベリアにはなお五万のポーランド人が生活していた。第一次大戦、ロシア革命及びそれに続く内乱により、シベリアにはさらに多くのポーランド人が流れこみ、内乱が始まる頃シベリアには十五万から二十万ものポーランド人がいた。

 

 革命と内戦によリロシア全土が大混乱に陥った時、シベリアのポーランド人たちは難民と化し各地を流浪し筆舌に尽しがたい苦難を嘗めた。戦乱・飢餓・酷寒の為多くの人々が亡くなった。なかでもあわれをとどめたのは親を失い飢餓に泣く孤児であった。その時ウラジオストックに住むポーランド人が難民救済に立ち上り、 一九一九年十月、「ポーランド救済委員会」を設立し、難民・罹災者の最低限の衣食住確保を目指した。

 委員会は主に親を失った孤児の救護に全力を尽した。しかし頼りにしていたアメリカ赤十字社が本国に引き揚げた。また資金難にも陥った。さらに一九二〇年四月、ポーランドとソ連との戦争が始まり、シベリア鉄道を使って孤児をポーランドに送ることが出来なくなった。このままでは孤児がみな死んでしまう所にまで追い詰められ万策つきた委員会は、最後に残された手段として日本政府に援助を懇請したのである。

 

 同年六月、救済委員会のアンナ・ビエルケヴィチ会長が来日、日本政府(原敬内閣)に嘆願した。日本は前年三月、ポーランドと国交を樹立していた。会長の訴えに深く同情した政府は日本赤十字社に救済事業を要請した。日赤社長石黒忠悳(ただのり)は七月五日、孤児救済を受諾した。ビエルケヴィチ会長はすぐにウラジオストックに戻ったが、その時の悦びをこうのべている。

 「興奮と混乱、笑いと喜びの爆発だった。子供たちは私を絞め殺すかのようにきつくしがみつき、興奮のるつぼの中で『日本に行くんだ』の叫び声がひときわ高く響きわたった」

 

 第一回孤児救済

 

 大正九年(一九二〇)七月二十二日、ウラジオストック港から第一陣五十七名の孤児を乗せた陸軍輸送船筑前丸が敦賀(つるが)港に到着した。その後翌年まで五回にわたり孤児が次々に送られてきた。総数三百七十五名である。

 孤児は東京・渋谷にある「福田会(ふくでんかい)育児所」に収容された。この育児所は明治九年、貧窮孤児を救う為、仏教関係有志(今川貞山・山岡鉄舟・高橋泥舟・渋沢栄一・益田孝等)によって設立されたが、孤児たちに宿舎を無料で提供した。

 孤児は男子二百五人、女子百七十人。これに三十三人のポーランド人が付き添った。年齢は九歳が最も多く、次いで十二歳、十一歳、十歳、十三歳。最年長は十六歳、最年少は二歳である。

 石黒社長始め日本赤十字社は孤児たちの為に真心を捧げ尽した。孤児たちは飢餓の生活が長らく続いたから、みなやせ衰え栄養失調にかかり半病人が少なくなかった。それゆえ日赤は食事・治療・衛生に細心の注意を払い、孤児たちの健康復に全力を傾注した。日本にやってきたとき孤児たちの衣服はみじめそのものであったが、日赤は衣服、肌着、帽子、靴下、靴をすべて新調して与えた。

 

 孤児達の生活は規則正しく行われた。起床は夏は六時(冬は七時)、洗面後一室に集って朝のカトリックによる祈禱、午前八時に朝食、そのあと付き添いのポーランド人の指導で読書や算数の勉強、幼少児はおもちゃ遊び。昼食後もまた読書・勉強、夕食後、再び祈禱して午後八時就寝という毎日である。お菓子や果物のおやつも毎日一回支給された。食生活はじめ何一つ不足ない至れりつくせりの日々であつた。

 

 朝野あげての同情ーー 貞明皇后の行啓

 

 ポーランド孤児はわが国朝野(ちょうや)あげての同情を集めた。各新聞が孤児たちのことを伝えたから衣服・靴・玩具・菓子などの寄贈品は百九十七件、金額にして五千八百八十五円(現在の約一億円程度)に達し、他に寄付金が千八百四十八円あった。また諸団体による慰問・慰安活動が相次いだ。いくつかあげると、福田会の慰安会、増上寺(ぞうじょうじ)少女団の訪間、東京府慈善協会の招待、公教(こうきょう)(日本人のカトリック青年信徒の集り)青年会による帝室博物館・上野動物園見学、日赤本社による日光見物等々である。

 ことに毛利公爵(こうしゃく)母堂毛利安子は孤児たちに深い慈愛を注ぎ、孤児たちが福田会に到着するたびに芝高輪(しばたかなわ)の毛利公爵邸に招待、広大な庭園で子供たちを楽しく遊ばせ、そのあと座敷で公爵とともに面会、茶菓の饗応をすることを常とした。孤児たちは母堂に花束を贈呈、そのあと両国国歌を斉唱した。

 また芸妓(げいこ)達が百円と菓子や手拭いをもって慰問している。当時の芸妓たちは不幸な境遇に育った人々が多く親のない孤児出身の人達もいたから、彼女らはこの異国の孤児たちにいたく同情したのである。

 

 不幸なポーランド孤児たちを誰よりも憐まれた方は貞明(ていめい)皇后である。皇后陛下は大正九年八月、お菓子料として二百五十円、十月に五百円、十一月に三百円、翌年三月に五百円、計千五百五十円を下賜(かし)された。さらに大正十年四月六日、日赤病院に行啓(ぎょけい)された。隣接する福田会からビエルケヴィチ会長以下全孤児が奉迎した。皇后陛下は子供らを近くに召され、四歳の女の子の頭を幾度も撫でられた。この女児の父は貴族だがシベリアでソ連軍に捕えられ、その時母は悲しみの余り自殺した。少女はそのあと四日間木の実を食べてさまよっていたところを、委員会により救出された。その為一週間ほど日赤病院に入院、やっと退院したばかりであった。陛下はこの少女の悲惨な身の上を聴かれており、ことのほか愛憐の情を注がれ「大事にして健かに生い立つように」と言葉をかけられた。少女は感激に身を震わせた。皇后陛下の行啓は直ちにポーランド本国に伝えられ、全国民を感泣させた。