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ポーランド孤児の救済(3)

ポーランド孤児の救済(3)

 

 松沢フミ看護婦の殉職

 

 シベリアで悲惨な生活を経験してきた孤児たちはいまだ健康を復していなかったので、大正十年四月下旬、二十二人が腸チフスに感染した。その後も感染者が続出した。日赤の医師と看護婦が治療と看護に尽した結果二週間ほどで終息、全員が治った。ところが献身的看護に当っていた看護婦松沢フミが腸チフスにかかり七月十一日、亡くなったのである。二十三歳であった。松沢フミは昼夜の別なく子供たちを看護した。あまりの激務にまわりが心配して、少し休むように言ってもやめなかった。彼女はこう言った。

 「人は誰でも自分の子や弟や妹が病いに倒れたら、おのが身を犠牲にしても助けようとします。けれどこの子たちには、両親も兄弟姉妹もいないのです。誰かがその代りにならなければいけません。私は決めたのです。この子たちの姉になると」

 松沢フミの死をきかされたとき、全ての孤児たちが号泣した。ことに不眠不体の看護を受けた子供たちは、声が枯れるほど泣き続けた。孤児らにとり彼女は真実のやさしい姉であり、まさしく神につかわされた白衣(びゃくえ)の天使であった。

 

 涙の惜別

 

 孤児は約二ヵ月間滞在した後、順次アメリカ経由で故国に帰った。第一陣の出発は大正九年九月二十八日、五十六人の孤児が横浜港から旅立った。港には平山成信(なりのぶ)日赤社長始め日赤病院の職員、医師、看護婦、福田会関係者、ポーランド公使館員、ビエルケヴィチ救済委員会会長らが万感の思いをこめて見送った。

 孤児は横浜の埠頭から伏見丸に乗船したが、乗りこむのにかなり時間がかかった。それは一部の孤児たちがこのまま日本にいたいと懇願したからである。子供たちは見送りの人々にすがりつき、

 「日本にいたい。日本に住んでいたい。もうどこにも行きたくない。日本のみなさんと一緒に暮らしたい」

と涙をぼろぼろ流しながら叫んだ。送るも送られるもただただ涙、涙の惜別であった。

 

 最後は大正十年七月八日である。総計三百七十人、孤児はアメリカにしばらく滞在したあと祖国ポーランドに無事帰還した。帰国後、ポーランド政府は日赤に感謝状を贈った。

 「ポーランド児童が横浜を出発するに際し、惜別と謝恩の涙を流したのは、児童に対する救護がいかに貴重だったかを証明する最良のものです」

 欧米のキリスト教国に見放されどこにも頼るところがなくなったとき、異教国日本だけが孤児たちに救いの手を差しのべた。そして朝野をあげて思いやりと愛情を尽し殉職者まで出した。これほどの博愛心をもつ民族が日本人である。ロシアやドイツに徹底的に痛めつけられたポーランド人にとり、日本人のポーランド孤児救済の行為は、彼らの奉ずるキリスト教の説く報いを求めぬ無私の「神の愛」そのものの行為と受けとめられたのである。ここにポーランド人の日本と日本人に対する「来世は日本人に生まれたい」とまで願う絶対的な親愛感情が生まれたのである。

 

 第二回孤児救済

 

 ポーランド孤児の救済活動はこれで終ったのではなかった。シベリアにはなお二千人余りの孤児がいたのである。ポーランド救済委員会ではポーランド・ソ連戦争が一九二一年三月に終了していたから、シベリア鉄道を使って送還しようとした。ところがこの年ソ連国内に大飢饉が発生、三百万人が餓死した。そこでソ連は他国人に旅行中の食事調達を厳禁した為、シベリア鉄道経由の送還が不可能となり、再び日本に援助を要請したのである。大正十一年(一九二二)三月、ビエルケヴィチ会長は日本赤十字社に嘆願書を提出した。その要旨は次の通りである。

 「先にシベリアに漂鼠(ひょうそ)(流浪の意)せし三百七十余名の不幸なる児童が日本赤十字社の慈恵によりてその生命を救われたる恩義は、彼等一同忘れんとしても忘る(あた)わざる所なり。然るにシベリアにはなお二千余人の同一不幸なる児童が救助を叫びつつあり。・・・我が救済会は全く無援の地位にありといえども彼等児童をして空しく死を待たしむるに忍びず、この際日本を()きて他に頼るの(みち)なきが故に、願わくば日本赤十字社の宏量無辺なる慈眼をもって照覧(しょうらん)せられ、本国まで汽船輸送の高義仁侠(にんきょう)(よく)せしめられたし」

 

 日赤では審議を重ねたが、問題は費用であった。第一救済は四十万円(約八十億)かかった。二千人の救済には百二十万円程必要になる。とてもその負担は無理だったので、緊急を要する児童約四百人を選んで救済することに決定した。平山社長がそれをポーランド駐日公使に伝達したところ、公使はこう応えた。

 「かかる慶報がポーランド国内に伝播(でんぱ)するや、 一人たりとも日本のために熱心なる謝意を表せざる者あらざるべく、また一人たりとも日本のために祝福の語辞を発せざる者なかるべし。はたまた送還せらるる児童が成長し国民となるに至るときは、これらの者は日本の高尚(こうしょう)なる行動を伝播しポーランド国内に日本の光輝を 宣揚(せんよう)せしむるべし」

 

 同年八月七日、第一陣の孤児百七人、付き添い十一人が敦賀港についた。敦賀では第一回目同様、町役場始め各機関が協力、翌日大阪に着いた。そのあと二回、合計三百九十名の孤児が大阪・天王寺の宿舎に収容された。最年長は十五歳、最年少が一歳である。前回同様、破れ汚れた衣服を着て、はだしの者も少なくなかった。宿舎に着くやとりあえず浴衣と靴を支給した。日本を出発する際には前と同じく洋服を一着ずつを新調するとともに毛糸のチョッキを与えた。

 孤児たちの生活は第一回と同様である。多くの子供たちが栄養失調で顔色が悪く元気がなかったが、日が立つにつれめきめきと健康をとり戻して行った。子供たちに対する医療・衛生については日赤大阪支部病院小児科医長と二名の医師及び看護婦が担当し、毎週二医師が一人一人を診察して万全を期した。今回もまた日本国民は厚く同情して、寄付金総額は八千五百余円に達した。また衣服・日用品・玩具、食べ物などの贈り物が数多く寄せられた。

 

 ここは天国だ

 

 貞明(ていめい)皇后はこのときもまたお菓子料として千円を下賜(かし)された。孤児への慰安行事も前回同様次々に行われた。主なものをあげれば、天王寺公園・動物園見学、大阪城見学、大阪市内遊覧、市公会堂での慰安会、活動写真の映写会などである。中でも孤児たちが喜んだのは天王寺動物園である。特別なはからいで象が檻から出され孤児たちは象の背中に乗せてもらえた。帰るとき彼らはみな覚えたての「アリガト」を回々にしたが、動物園長はその言葉に涙をこぼした。

 

 八月三十一日の天長節(てんちょうせつ)(大正天皇御誕生日)は宿舎で祝賀式が行われたが、孤児たちは前日「君が代」の練習をした。信愛高等女学校の教師が親切に指導したので三〜四時間で歌えるようになった。翌日、朝のお祈りをしたあと、一同前庭に整列、東方に向って遙拝、「君が代」とポーランド国歌を斉唱した。孤児たちは「君が代」を日本語で立派に歌うことができ大喜びだつた。

 あちこちから慰間の人々が訪れたが、そのなかで二人の少女が、ぜひ洗濯の手伝いをしたいと申し出た。付き添いのポーランド人は遠慮して辞退しようとした。しかし少女はきかなかった。少女は毎日定刻に来て洗濯をした。日本人のこうした博愛・慈善の行為に心を打たれない孤児たちはいなかった。「ここは天国だ」と誰もが思った。

 

 離別の日が来た。同年八月二十五日、第一陣が大阪駅から出発したが、駅は見送りの人々で埋った。孤児たちはみな泣いていた。前の横浜同様、「日本にいたい」と泣き叫ぶ子供が少なくなかった。人々は子供たちの手を握り、抱きしめ、頬ずりした。「日本におりたいんなら、おればええんや。わいが育てたる」と涙ながらに言う人もあった。

 

 このあと孤児は神戸から出港、インド洋を経て故国に向う。午前十一時、汽笛が低く響く。孤児たちは甲板(かんぱん)に鈴なりになって手を振った。子供たちは「君が代」とポーランド国歌を斉唱し、「日本、万歳」「ポーランド、万歳」「日赤、万歳」を叫んだ。

 続いて九月、第二陣が神戸から出港、計三百九十名が無事祖国に帰還を果した。こうして第一回第二回合計七百六十五名の孤児が救済されたのである。

 

 日本への「最も深き尊敬と感謝」

 

 日本政府、日本赤十字社、日本国民の再度に及ぶこうした博愛の行為は、ポーランド国民に心の底からの感銘、感激を与えずにはおかなかった。ポーランドのジー・リツスキー大統領は大正天皇に次の親書を送り深甚の謝意を表した。

 「陛下

  ポーランドが過去一世紀にわたる長期間その解体を()いられ圧政を忍ばざるべからざりし迫害、並びにその国民の追放その他悲惨なる事態に原因する国民の移住等は、最近における世界戦争及び露国革命と相俟(あいま)って多数のポーランド国民を全世界に散乱せしむるの原因をなしたり。そしてポーランドがその独立と自由とを回収せる時に際し、幼少にしてしかもその大部は戦争の結果孤児たる史的悲劇の廃残(はいざん)に過ぎざる児童の一大集団は、貴国沿岸に漂着するところとなりたり。彼らがこの地に漂流したるは彼らにとりて実に不幸中の幸福たりしなり。実に可憐なるポーランド児童は、慈悲に富みかつ慇懃(いんぎん)極りなき歓待に浴したり。そしてこの恩遇は彼らの心肝(しんかん)に深く銘せしところなれば、将来貴我両国の親善なる関係をしてますます密接ならしむるに貢献するところ少なかるべし。・・・今やこれらの児童は貴国政府ならびに日本赤十字社の多大の援助によりて祖国に帰還することを得たるをもって、()はここに陛下及び皇后陛下に対して予及び全ポーランド国民の名において特に至深(ししん)の謝意を表彰せんとす。

  一九二二年十二月三日

      陛下の誠実なる良友

         ジー・リツスキー」

 

 またポーランド救済委員会のユゼフ・ヤクブケヴィチ副会長はこうのべている。

 「日本とポーランドとは全く縁の薄い異なる民族です。日本はポーランドとは全く異なる地球の反対側にある国です。しかしながら不運なるポーランドの子どもたちにかくも深い同情を寄せ、心からの憐憫(れんびん)(じょう)を示してくれた以上、我々ポーランド人は(きも)に銘じてその恩を忘れることはありません。ポーランド国民は日本に対して、最も深い尊敬、最も深い感銘、最も深い感謝と報恩、最も温かき友情と愛情をもっていることをお伝えしたい。そして我らのこの最も大なる喜悦(きえつ)を言葉でなく、行為をもっていずれの日にか日本に(むく)いることあるべしと」

 

 他国民からこれほどの尊敬と感謝の念を抱かれる国民はめったにあるものではない。日本人がかくも敬愛されるのは私たちの先祖が立派だったからである。日本人の国民性がいかなる国と比べてもすぐれていたからにほかならない。