月刊誌「明日への選択」のご紹介

 「明日への選択」は、安倍元総理が懇意にされていたシンクタンク『日本政策研究センター』の発行する月刊誌で、日本にとって重要な論文が多数掲載されています。

 

 岡田邦宏所長の承認をいただき、日本政策研究センターのホームページ掲載の最近の小論文をサンプルとして掲載しています。 

 

 センターのホームページには過去の小論文が多数掲載されていますので、是非、ご一読ください。トップページの「オピニオン一覧」が分類されていて解り易いです。

 

※日本政策研究センターは、「明日への選択」購読会員を求めていますので、関心のある方はぜひ会員申し込みをお願いします。(ページ下段の「入会のご案内」をご確認ください。)

 

青い文字にリンクが張ってありますので、クリックすれば該当のページに飛びます。



推進派が漏らす別姓先進国の不都合

 

 

 夫婦別姓問題で外国の事例を確認したりする際、別姓推進派の本を参考にすることがある。ちくま新書の『夫婦別姓―家族と多様性の各国事情』は各国で現地の男性と結婚している日本人女性(もちろん全員別姓推進派)が国別にレポートしたもので、各国の実情が分かって面白い。

 例えば、別姓夫婦では子供は両親のどちらかと別の姓になるが、それは実に不便なことだという。

 「子どもと姓が違うと、親子と証明するため子どもの出生証明書、または住民票を携帯する必要がある。特に飛行機に乗る場合は、証明書を求められることがある。姓が違うためにパスポートだけでは親子と証明できないからだ」(ドイツ)。

 フランスでも「空港で、子どもの連れ去りではないことを証明するために、父親の合意書を提出させられ、……書類を失したら、誘拐したと言われても仕方ない」という。

 別姓推進派は、結婚改姓すれば名義変更など手続きが煩わしいと言うが、欧州ではそんな手続きどころか親子を証明するという大問題が生じている。

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 日本の推進派は親子別姓になっても諸外国では子供の問題は生じていないと言うが、現地からはこんな声が聞こえてくるという。

 「……子どもの姓についての質問の余白に、母親から書き込まれたコメントの多くは姓の異なる子どもと自分との関係を示す難しさについてだった。子どもは父の姓という場合が圧倒的に多く、日常生活上、母親である自分と子どもを『紐付ける』簡単な方法がなくて困っている」(ベルギー)。

 別姓でも子供の問題はないとはとても言えまい。

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 中国の実情も興味深かった。中国人の夫と北京に住む日本人女性は完全な別姓である中国では「家族のつながりは日本以上に強い」という。確かにこの女性がレポートする義理の父母や夫との日常的な関係には強い繋がりが窺える。

 この繋がりこそ「男女平等の夫婦別姓」の成果だとこの女性は主張するのだが、そんなに単純ではない。というのも親戚が持ってきた家系図に女性の子供は記載されているが、嫁であるこの女性も義母も記載されておらず、しかも皆それを当然視していたことがショックだったという。「男女平等の夫婦別姓」の内実は嫁は婚家に入れないという昔の父系血統主義のままと言える。

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 実は、日本でも明治の初め庶民も公式に姓が名乗れるようになった頃、当時の内務省は武家の慣習だった夫婦別姓での戸籍作りを訓令・指導していた。それに対して地方から反対の声が上がり、夫婦同姓の民法と戸籍となった。

 というのも、地方では明治以前から生活をともにする妻が夫の氏(姓)を称することが慣行として定着していたからだ。明治二十二年の宮城県の内務省への伺(問い合わせ)は「(妻は)嫁家の氏を称するは地方一般の慣行」と書き、翌年の東京府の伺では「婦は夫の氏を称」するのは「民間の普通の慣例」である。ところが内務省の訓令があるために「強いて生家の氏を称用せしめざるを得」なくなり、「習慣に反し……苦情も相聞こえ」て来ていると内務省を批判さえしている。その結果、明治の民法では家族は同一の氏となり、今日の同姓制度の原型が作られることとなった。

 先に紹介した北京の女性は日本と中国をこんなふうに対比している。「中国が血に固執したのに対し、日本は明治以降、父系の血統よりも『夫婦の生活実態』による『夫婦の一体感』を重視して同姓制度を導入した。この『妻が同姓であることによる一体感』は確かに存在するし、このような『一緒にいる』感覚を大事にすることは悪いことではない」と。

 日本の夫婦同姓制度は家族の一体感を守る上で優れているとの指摘は重要だ。(日本政策研究センター所長 岡田邦宏)

〈『明日への選択』令和6年10月号〉

自民党総裁選各候補者の政見を読んで

 

 本稿執筆の現在、注目の自民党総裁選はまだ終盤にあり、残念ながらその結果を見て書くことはできない。従って、本稿ではこれまで筆者がこの総裁選の中で、とりわけ感じたことを書かせていただく。

 まず筆者にとり、最も関心があったのは、各候補者がこの日本の現状をどう捉えているか、ということであった。しかし、この関心に応えてくれた候補者は少なかった。個々の政策については、各候補者が掲げたものにはそれなりに興味を抱かせるものもあったが、一方その出発点となる現下日本への基本認識となると、どっしりとした「骨太なもの」を感じさせてくれるものが少なかったのである。

 安倍元総理はその『回顧録』において、最初に総理となった時、自分は官房副長官と長官を合計四年務め、総理の何たるかはわかったつもりでいたが、「総理大臣となって見る景色」は、そうしたものとは、「まったく別だった」と述べている。それは総理にしか感じられない決断の「重さ」といったものでもあろうが、とすれば総理には、かかる決断の基となる単なる政策以前の認識や覚悟が求められるという話でもあろう。

 例えば、世界の現状に対する認識だ。これほど複雑で困難な問題に直面することとなった時代は戦後かつてなかったといってよいが、その危機感を感じさせてくれる候補者が、高市氏の他、ほとんどなかったのである。例えば中国の脅威だ。台湾有事の「二〇二七年説」がいよいよ現実味を帯びるが、これをどう考えるか。三年の総裁任期を考えれば、新総裁がこれに直面する可能性は極めて高い。となれば、全政策の冒頭に、これに対する総理をめざす者としての独自の認識や覚悟が示されて当然と思うのだ。

 マスコミの事前予測では相変わらず石破氏の人気が高いが、氏は今回「アジア版NATO構想」なるものを打ち出した。しかし、その実現可能性や構成国を問われた際、氏は何と「これから議論を詰めたい」と答えたのである。防衛の専門家を自称しつつ、実はこれについて何も具体的なことは考えてこなかった、という話だったのだ。

 日本の現状に対する危機感ということでいえば、今年は日本人の出生数が七十万を割ることが確実視される。しかし、この少子化の現状に対する各候補の認識にも物足りなさを感じた。確かにどの候補もそれなりの危機感を語ってはいた。とはいえ、そこには「何としても自分がこの問題に答えを出す」という決意は感じられなかったからだ。今日の現状は、その程度の認識や決意では、もはや何ともならないギリギリの危機に立ち至っているにもかかわらず、だ。

 一方、小泉氏は夫婦別姓問題に対し、「長年議論ばかりで、答えを出していない課題に決着をつけたい」と述べ、「一年以内の法案提出」をも明言した。しかし、それによる社会的影響をどの程度考えているか、それが見えなかった。夫婦別姓となれば、子供には親子別姓・家族別姓が強いられる。親には選択権があっても、子供にはそれはない。この不合理を、氏は家族のあり方としてどう考えるか。

 と同時に、候補者たちの認識に、日本の「伝統の力」に言及したものが全くなかったことも問題だった。安倍元総理はまず「戦後レジームからの脱却」をいい、また「日本を取り戻す」といった。しかし、各候補が語ったのは、あくまでも無機的で、ニュートラルな、いわば精神なき改革論に過ぎなかった。しかし、このようなもので、果たして難題解決の「国民の力」が出てくるのだろうか。この点、高市氏は「祖国を守ってこられた方々への感謝」を明言していたが、これこそが国家の指導者に求められる認識であり、姿勢ではなかろうか。

 結果は今後の日本を決める。良き結果を祈りたい。(日本政策研究センター代表 伊藤哲夫)

〈『明日への選択』令和6年10月号〉