この記事は、日本政策研究センター 伊藤哲夫代表が掛かれたもので、管理人が以前から感じていたある種の郷愁に似た感覚を感じるのです。

 

 あら70の私が子供の頃、親の知らないところでのいたずらがばれ、母親から叱責された最後にいつも言われた「お前が隠そうとしても、お天道様が見ているよ!」。怒ると怖い親よりも上位の存在が自分を見ているんだと畏怖しました。

 そして月明かりの無い夜は真っ暗で夜道を歩くときは懐中電灯がないと何も見えません。視線の先の懐中電灯の光が当たらない闇に何かうごめいている気がして、怖くて、ともに歩いていた親や兄たちに抱き着いたものです。その時代は昼の光と夜の闇が常にありました。

 

 今、街中に住む私の周りには光であふれています。身の回りに闇がなくなってしまいました。そしてなんとなく子供の頃の夜の闇の記憶を懐かしむ自分がいます。

 



今日の「崩壊的な状況」に思う 

日本人が失った「命の連続」の感覚

                   日本政策研究センター代表 伊藤哲夫

 

 本誌の巻頭言では外交安全保障の問題を指摘させていただきましたが、もう一つ私がこのところ気になってならないのが、わが日本社会の崩壊的な状況です。崩壊的などというと大袈裟と笑われるかも知れませんが、私には今後の日本への警鐘と思えてならないのです。離婚が珍しくなくなり、家族が崩壊し、親子や兄弟がバラバラになっているのはいうに及ばず、子供への虐待、家庭内暴力は今や日常茶飯のニュースです。また、若者はなかなか結婚せず、出生する子供の数は急減少。その子供にしても、何と30万人の小中校生が引きこもり状態にあるといいます。「個の尊重」は良いとしても、社会の将来の姿が揺らぎ、危うくなり始めているのが現実ではないでしょうか。

 

 それだけではありません。社会の治安が乱れ始めているのも重大です。最近はネット上で闇バイト募集に応募した若者が、指示役の指示のままに冷酷な強盗や殺人を実行するという陰惨な事件が話題になっておりますが、ここにはネット社会が抱える闇とともに、この日本社会の「治安」が崩壊し始めている兆候が見てとれます。加えて、余り新聞ネタにはなりませんが、若者たちの間に浸透している麻薬の問題も深刻なようです。

 

 戦後日本は一貫して権利・自由を高く掲げ、「個の尊重」「個の自立」を謳って参りました。しかし、その結果はどうだったでしょうか。それが先のようなものだとしたら、これを私たちはどう考えるべきか。確かに、人々は自由になり、豊かになって、物質的に充実した生活を満喫できるようになったのは事実です。とはいえ、心の中は実は空っぽで、信ずるものもなく、孤独や不安に苛まれているのが現実ではないでしょうか。

 

 そんな中でのこの夏、私は以下のような指摘を眼にし、しばし考えさせられました。お盆の習俗に関わる佐伯啓思氏の指摘です。

「お盆とは、言うまでもなく、日本古来の祖霊信仰と仏教の融合によるわが国独特の習俗であり、この時期には、死者の霊が強く想起される。死者の霊が『あの世』からそれぞれの家に戻って、わずかな時間ではあるが生者との魂の交流をもつ。そして、死者の霊はふたたび『あの世』に戻っていく。これが、霊魂に対する日本人の伝統的な思いであった」

 いきなりお盆だの霊魂だのという話で恐縮ですが、私がこの指摘に感じたのは、ここには先の戦後日本の社会光景とは全く異質な世界がある、ということでありました。われわれが今生きるこの世界は、万事物質中心・現世中心で、「あの世」など考えることもない世界ですが、このお盆の習俗が生きていた伝統的な世界では、霊魂の存在が信じられるとともに、それは身近で、各々の家には神棚や仏壇があり、「先祖を祀る」という観念が確かに生きておりました。私にも記憶がありますが、お盆はわが家でもいつもとは異なる特別の日で、子供ながらに神妙な思いで仏壇に手を合わさせられていたことを思い出します。

 つまり、この頃のわれわれには、先祖から両親、そして自分、という「命の連続」が常に意識されており、日常の生活はその観念をベースに成り立っていたということです。氏はいいます。

「『目上の者には敬意を払う』『他者には礼儀正しく接する』『嘘をつかない』『弱い者いじめはしない』などの日常生活における道徳は、じつのところ学校や社会ではなく家庭で教わるものであった。子供は親の生き方や言動を見て、多くを学ぶ。そうした無形の財産は一世代でかたちづくられるものではなく、親もその父母から多くを学んだ。こうして、国や土地の精神的文化が、『イエ』において継承されてきたのである」

                                ◇

 戦後の日本はこうした社会のあり方を否定してきました。しかし、今一度われわれはこのような社会のあり方の意味を思い出しても良いのではないかと思うのです。われわれはこうした先祖やイエとは関わりをもたぬ「単なる個人」ではないからです。こう考えつつ、私は柳田国男が以下のように指摘していたのを思い出しました。

「人は死んでも、国土を遠く離れることはなく、生者と死者は交わりをもち続けている。多くは故郷の山の上から子孫の営みを見守り繁栄してほしいと願っているし、生者もまた、死者に見守られていると思い、いつかは自分もその側になると安心して思っている。死者と生者との距離はそれくらい近いのである」(先崎彰容氏の要約)

 

 つい半世紀前までの日本人は、こうした人間観の下で生きておりました。こんな考え方は迷信に過ぎぬとしてきたのがわれわれですが、私はこう考えることができた日本人は実は大変幸せであったのではないか、と思います。こんな時代に帰ることは容易ではありませんが、われわれが失ってしまった大切なものを思い出してみるためにも、今日の社会状況と対比しつつ、時たま思い起こしみるのも有益ではないか、と思うのです。